このとき、御堀耕助は黒田清隆に二十三歳の乃木文蔵を紹介し、「陸軍に入れてやってくれ」と頼んだ。黒田は快諾した。
その後、明治四年五月十三日御堀耕助は病没したが、陸軍に強い影響力を持つ黒田は約束を忘れなかった。
東京から内命があり、乃木文蔵(希典)は上京した。明治四年十一月二十二日、乃木源三は黒田清隆の私邸に呼ばれ、「おはんは、明日から陸軍少佐である」と言われた。その翌日任命式が行われた。乃木文蔵はまだ、二十二歳だった。
乃木希典は晩年にいたっても、「わしの生涯でこの日ほど嬉しかったことはない。明治四年十一月二十三日という日は今でも暗記している」としばしば言ったという。
乃木文蔵は、陸軍少佐になり、名前を「希典(まれすけ)」に改名した。
明治六年四月、乃木希典は名古屋鎮台大貳心得に補された。だが、明治七年五月、名古屋鎮台勤務を免じられ、休職仰せ付けられた。軍歴の四回の休職のうち、最初の一回目の休職である。
「乃木希典」(戸川幸夫・人物往来社)によると、この休職の理由ははっきりしていないが、この頃、二十五歳の乃木希典は、かなりの乱行をしていて、酒と女に耽溺していたので、そんなところに原因があったのではないかと言われている。
この時の乃木の休職を救ったのは山県有朋である。同年九月乃木希典は陸軍卿・山縣有朋の伝令使(副官を)仰せ付けられた。山縣は同郷の後輩、乃木を拾い上げて自分の伝令使にしたのである。
明治八年十二月乃木希典少佐は、熊本鎮台歩兵第一四連隊長心得を命ぜられ、明治九年一月、小倉に赴任した。二十七歳であった。
「乃木大将実伝」(碧瑠璃園・隆文館)によると、「乃木連隊長心得として勤務している頃のある日のことだった。乃木少佐が出勤した後で、馬丁が馬を引いて営門を出ようとした。
すると、その時、歩哨を務めていた一兵卒は連隊長の愛馬と知っていたので、直立不動の姿勢をとり、捧銃(ささげつつ)の敬礼をした。この馬は豪州産のアラビア馬で、小倉連隊にはただ一頭しかいない立派な逸物だった。
そこにいた週番将校はこの兵卒の敬礼を見て怪しからんと思ったのか、つかつかとその兵卒の側に寄って、「馬鹿ッ!馬に敬礼せよと誰が教えたか!」と叱責した。
歩哨は言葉を返して、「連隊長の愛馬でありますから」と答えた。だが、翌日、違法の敬礼をした廉(かど)によって処罰されることになった。
乃木少佐はこのことを聞くと、共に歩哨と週番将校を一室へ呼び入れて、処罰の理由を問いただした。週番将校はありのままを物語った。
乃木少佐は一応聞き取った後、週番士官に次のように言い渡した。
「歩哨の所為を違法の敬礼とすれば、お前は違法の命令であるから、共に処罰を加えなければならぬ。馬に敬礼せよと教えた者はあるまいが、連隊長の馬と見て敬礼したのは、強(あなが)ち悪いことじゃない」
「軍人は秩序を尊ぶ。私はその精神を慶びいれる。勿論、処罰を加えるほどの過失ではないから、過失は過失として注意を加え、長官に対して秩序を重んじる精神だけを買うてやれ」。
この週番士官は乃木少佐の言葉に感じるところがあり、それ以来、深く精神修養に努めるようになったと言われている。
また、夏の暑い日に演習をしたことがあった。古谷軍曹が中隊長の命によって、連隊本部へ伝令に行って見ると、乃木連隊長の着ている軍服が汗でびとびとになっていた。
古谷軍曹は、さぞ心持が悪かろうと思って、「お召し物を乾かせなすっては如何です」と、うっかり言った。
すると乃木連隊長は忽ち眼をいからせて、「貴様は何だ!軍人じゃないか。軍人でいてそんな事が分からぬか。汗や暑さを恐れるようで、有事の時、役に立つか。貴様の腹は腐っているから分からん。一ぺん清水で洗って来い」と叱責した。
その後、明治四年五月十三日御堀耕助は病没したが、陸軍に強い影響力を持つ黒田は約束を忘れなかった。
東京から内命があり、乃木文蔵(希典)は上京した。明治四年十一月二十二日、乃木源三は黒田清隆の私邸に呼ばれ、「おはんは、明日から陸軍少佐である」と言われた。その翌日任命式が行われた。乃木文蔵はまだ、二十二歳だった。
乃木希典は晩年にいたっても、「わしの生涯でこの日ほど嬉しかったことはない。明治四年十一月二十三日という日は今でも暗記している」としばしば言ったという。
乃木文蔵は、陸軍少佐になり、名前を「希典(まれすけ)」に改名した。
明治六年四月、乃木希典は名古屋鎮台大貳心得に補された。だが、明治七年五月、名古屋鎮台勤務を免じられ、休職仰せ付けられた。軍歴の四回の休職のうち、最初の一回目の休職である。
「乃木希典」(戸川幸夫・人物往来社)によると、この休職の理由ははっきりしていないが、この頃、二十五歳の乃木希典は、かなりの乱行をしていて、酒と女に耽溺していたので、そんなところに原因があったのではないかと言われている。
この時の乃木の休職を救ったのは山県有朋である。同年九月乃木希典は陸軍卿・山縣有朋の伝令使(副官を)仰せ付けられた。山縣は同郷の後輩、乃木を拾い上げて自分の伝令使にしたのである。
明治八年十二月乃木希典少佐は、熊本鎮台歩兵第一四連隊長心得を命ぜられ、明治九年一月、小倉に赴任した。二十七歳であった。
「乃木大将実伝」(碧瑠璃園・隆文館)によると、「乃木連隊長心得として勤務している頃のある日のことだった。乃木少佐が出勤した後で、馬丁が馬を引いて営門を出ようとした。
すると、その時、歩哨を務めていた一兵卒は連隊長の愛馬と知っていたので、直立不動の姿勢をとり、捧銃(ささげつつ)の敬礼をした。この馬は豪州産のアラビア馬で、小倉連隊にはただ一頭しかいない立派な逸物だった。
そこにいた週番将校はこの兵卒の敬礼を見て怪しからんと思ったのか、つかつかとその兵卒の側に寄って、「馬鹿ッ!馬に敬礼せよと誰が教えたか!」と叱責した。
歩哨は言葉を返して、「連隊長の愛馬でありますから」と答えた。だが、翌日、違法の敬礼をした廉(かど)によって処罰されることになった。
乃木少佐はこのことを聞くと、共に歩哨と週番将校を一室へ呼び入れて、処罰の理由を問いただした。週番将校はありのままを物語った。
乃木少佐は一応聞き取った後、週番士官に次のように言い渡した。
「歩哨の所為を違法の敬礼とすれば、お前は違法の命令であるから、共に処罰を加えなければならぬ。馬に敬礼せよと教えた者はあるまいが、連隊長の馬と見て敬礼したのは、強(あなが)ち悪いことじゃない」
「軍人は秩序を尊ぶ。私はその精神を慶びいれる。勿論、処罰を加えるほどの過失ではないから、過失は過失として注意を加え、長官に対して秩序を重んじる精神だけを買うてやれ」。
この週番士官は乃木少佐の言葉に感じるところがあり、それ以来、深く精神修養に努めるようになったと言われている。
また、夏の暑い日に演習をしたことがあった。古谷軍曹が中隊長の命によって、連隊本部へ伝令に行って見ると、乃木連隊長の着ている軍服が汗でびとびとになっていた。
古谷軍曹は、さぞ心持が悪かろうと思って、「お召し物を乾かせなすっては如何です」と、うっかり言った。
すると乃木連隊長は忽ち眼をいからせて、「貴様は何だ!軍人じゃないか。軍人でいてそんな事が分からぬか。汗や暑さを恐れるようで、有事の時、役に立つか。貴様の腹は腐っているから分からん。一ぺん清水で洗って来い」と叱責した。