陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

423.乃木希典陸軍大将(3)この程度の学問で学者になろうというのは、分に過ぎた望みです

2014年05月02日 | 乃木希典陸軍大将
乃木十郎希次の食禄は、表面は八十石だったが、実際のところは四十石だった。禄高は少ないが、「長府毛利では、まず乃木十郎希次!」と評判される位、武芸、学問、才知、気骨といい押しも押されもしない、人物だった。

 乃木希典が生まれたとき、乃木十郎希次は、毛利家の長府藩江戸詰めの武士として、麻布日ヶ窪の毛利邸内の武家屋敷に住んでいた。

 「人間 乃木希典」(戸川幸夫・光人社)によると、有名な吉田松陰の松下村塾を始めて開いたのは、長州藩士で、山鹿流の兵学者・玉木文之進(吉田松陰の叔父)だった。

 玉木文之進は、天保十三年に松下村塾を開き、子供たちの教育を始めた。武士として安政三年に吉田代官に任命され、以後各地の代官職を歴任して、安政六年には郡奉行に栄進した。

 だが、安政の大獄で甥の吉田松陰が処刑され、その監督責任を問われ、代官職を剥奪された。その後復職を許され、藩政に参与し奥番頭にまでなった。政界から引退後再び松下村塾を開いていた。

 玉木文之進の教え方は、昼はそれぞれ自分の家の用をさせておいて、日暮れから勉強をさせ、徹夜することも珍しくなかった。

 勉学の態度や礼儀に非常に厳しく、当時塾生であった、あの吉田松陰でさえも、玉木文之進から厳しく叱りつけられ、書斎の縁からつき落とされたことがあった。

 その書斎は三間ばかりの崖の上に建っていたので、つき落とされた松陰は谷底まで転がり落ちた。これは松陰自身が後に語ったことである。

 文久三年十二月、十五歳の乃木無人(希典)は、元服して名を「源三」と改名した。

 元治元年三月、十六歳の乃木源三(希典)は、生まれつき体が弱かったので、武家礼法と文学に興味を示し、学者を志していた。武術はおろそかにしていた。文学で身を立てようと思っていたのだ。

 源三が、父にその志を話すと、「武士の家に生まれた者が、こんな情弱でどうするか!」と断固として許さなかった。

 父と対立した源三は、無断で家出をして、萩の城下に近い松本村に行った。そこには松下村塾を開いていた玉木文之進(乃木家の親戚)が住んでいた。

 源三は文之進に志を述べて同情を請おうとした。すると文之進は非常に怒って、「武士の家に生まれた者が武芸を好まないならば、百姓をしろ。学問だけをしようという気持ちなら、泊めて置くことはできぬ。早々と帰れ!」怒鳴った。

 源三は自分の志を曲げることはできないので、夜もふけていたが、ここにいても仕方がないと、門の方へ出て行くと、文之進の夫人、辰子が追いかけてきて「今頃、どこへ行くつもりですか」と言った。

 源三が「故郷に帰るつもりです」と答えると、辰子は「こんな夜中に、あの山道を越えるのは大変です。とにかく今夜は主人に内緒でお泊めしますから、あしたお帰りなさい」といたわった。

 非常に疲れていたので、源三は辰子の言葉に甘えて一泊することにした。

 ところが、その夜、夫人は源三に向って「あなたが学問を志すと聞きました。それならまず、試みにこの本を読んでごらんなさい」と論語を差し出した。

 言われたとおりに源三は論語を読み始めたが、よく読めなかったので、誤読も多かった。

 すると辰子は「この程度の学問で学者になろうというのは、分に過ぎた望みです。主人が許さないのももっともです。だけど、あなたが農業に従事しながら勉強をしようというなら、私はあなたのために、夜だけ日本外史などを読んでお教えしましょう」と言った。

 辰子は文之進の従妹にあたる人で、長州藩の家中・国司(くにし)家の出身だった。当時の女性とはいえ、学問の優れた人物だった。だが、惜しくも辰子は明治四年五月病死した。文之進はその後、後妻を貰った。

 このようなことから源三は玉木文之進の家に住み込んで農業をやりながら学問をした。畑仕事の合間に玉木文之進から学問の話を聞いた。夜になると辰子から日本外史などを教えてもらった。

 こうして、教育を受けているうちに、源三は武士としての修業を積もうと本気に志すようになった。だが、一年を過ぎた頃、源三の父が病気になり、帰郷した。

 
 しばらくして父の病気は治ったので、今度は父の許しを得て萩に出た。源三は玉木文之進に武士になるという志を述べ、藩校の明倫館に入校したいと申し出た。