岡田大将はこれに応諾した。その日の午後、岡田大将は海相官邸に出向き、幣原外相の来るのを待った。午後一時半、幣原外相が現れ、請訓書を見せ、次のように述べた。
「若槻、財部、松平、永井(松三)の四全権の署名のものである。同時に若槻全権からは『この上の尽力は出来難い』と言って来ているので、これ以上は政府としても押すことは困難である」。
これに対し岡田大将は次のように述べた。
「最後にはあるいはやむを得ないかも知れない。但し八吋巡洋艦は対米七割を絶対必要とする、また潜水艦の五万二千トンでは配備困難である。これは何とか緩和する方法を講じ、なお飛行機その他制限外艦艇をもって国防の不足を補うことにすれば、最後にはあるいはやむを得ないだろう、決裂は良くないと思う」
「但し、現在の軍令部の案とこの案とは非常な開きがある。殆ど断崖から飛び下りるようなものだが、断崖から降下し得る途を研究してもらいたい。また、海軍大臣から省部に対し請訓について何等意思表示がない。山梨から海軍大臣の意向を問い合わすことを認められたい」。
三月二十一日、山梨次官と原田熊雄(東京・学習院高等科・男爵・京都帝国大学・日本銀行・加藤高明首相秘書官・元老西園寺公望私設秘書・貴族院議員)から岡田大将に電話があった。
二人とも、「斎藤実(さいとう・まこと)朝鮮総督(岩手・海兵六・海軍次官・海軍大臣・勲一等旭日大綬章・海軍大将・朝鮮総督・勲一等旭日桐花大綬章・子爵・首相・内大臣・大勲位菊花大綬章)に、今しばらく、在京されたいと頼んでくれ」という依頼だった。
そこで岡田大将は斎藤邸に電話して都合を聞き、同日午後三時、四谷の斎藤邸を訪問した。岡田大将は斎藤総督に次のように言った。
「私は別に何とかして下さいとは申さぬが、何となく今度は只ではおさまらないで、見苦しい場面を生ずる予感がする。どうか今しばらく滞在せられたい(朝鮮に帰るのを延ばしてほしい)」。
さらに岡田大将は、軍縮に関する自己の意見を吐露した。これに対し斎藤総督は次のように述べた。
「その外に途はない、その方針で進まれるがいい。しかし、自分は今夕、出発のことにすべての準備ができている、これを今更変更するのは却って宜しくない」。
岡田大将は「今後も何分助力を願う」旨を述べて、斎藤邸を辞した。
一九三〇年(昭和五年)から一九四〇年(昭和十五年)までの間における西園寺公望をめぐる政局の裏面を記した原田熊雄の日記、「原田日記」は、昭和二十五年に「西園寺公と政局」(原田熊雄・岩波書店・全八巻・別巻一)として出版された。
今回の岡田大将の動きについては、「西園寺公と政局」には、次のように記してある(要旨)。
「浜口首相と幣原外相との話し合いの結果、幣原外相が岡田大将と会見して、岡田大将の斡旋を依頼したところ、岡田大将は『どうも自分一人では軍令部長を抑えるわけには行かないから、斎藤朝鮮総督と一緒に努力しましょう』と言って、斎藤総督に会ってなお数日帰任を延ばしてくれるよう頼んだ」
「けれども、総督も『あまり長く東京にいすぎたので今更延ばすわけにもいかぬ』という話であったので、岡田大将は斎藤総督に海軍の内部の纏め方について説明してただ同意を求めたところ、『至極尤もだ、ぜひその方法でやれ』ということで別れた」。
以上の記述から、岡田大将の手記と「原田日記」は大体において筋は合っていた。
「外交五十年」(幣原喜重郎・中央公論新社)によると、幣原外務大臣のロンドン会議全権の請訓に対する考え方は、何とかして海軍軍縮に関する協定を妥結しようとするものであり、次のように記されている。
「米英を相手に会議がほとんど行き詰ったが、どうしようかという最後の請訓が来た。これは思い切って纏めるより仕方がない。海軍の連中から説明なんか聞いていたら、とっても纏まりやせん。軍令部長の加藤(寛治)などの説には重きをおかないで、これだけの兵力量ということを、ピシャリと決めてしまった」。
幣原は以上のようにアッサリとしたことを言っているが、この本は戦後に語ったことを出版したものだから、これだけハッキリ言えるが、当時はこれほど気楽にものが言える状況ではなかった筈である。だが、これは幣原の本音であったことは確かだ。朝鮮総督・斎藤実海軍大将についても、次のように述べている。
「その頃海軍の先輩である斎藤実子爵が朝鮮総督をしていたから、財部君も京城で意見を交換したであろう。これは私は当時誰にも洩らさなかったが、その頃私は斎藤総督から私信を貰った。その手紙には、海軍部内とハッキリ書いてはいなかったが、わけのわからん説にあまり耳を貸しすぎて、この重大な問題を打ち壊すことのないように、そういう暴論は全然無視して、邁進しれくれというようなことが書いてあった」。
「若槻、財部、松平、永井(松三)の四全権の署名のものである。同時に若槻全権からは『この上の尽力は出来難い』と言って来ているので、これ以上は政府としても押すことは困難である」。
これに対し岡田大将は次のように述べた。
「最後にはあるいはやむを得ないかも知れない。但し八吋巡洋艦は対米七割を絶対必要とする、また潜水艦の五万二千トンでは配備困難である。これは何とか緩和する方法を講じ、なお飛行機その他制限外艦艇をもって国防の不足を補うことにすれば、最後にはあるいはやむを得ないだろう、決裂は良くないと思う」
「但し、現在の軍令部の案とこの案とは非常な開きがある。殆ど断崖から飛び下りるようなものだが、断崖から降下し得る途を研究してもらいたい。また、海軍大臣から省部に対し請訓について何等意思表示がない。山梨から海軍大臣の意向を問い合わすことを認められたい」。
三月二十一日、山梨次官と原田熊雄(東京・学習院高等科・男爵・京都帝国大学・日本銀行・加藤高明首相秘書官・元老西園寺公望私設秘書・貴族院議員)から岡田大将に電話があった。
二人とも、「斎藤実(さいとう・まこと)朝鮮総督(岩手・海兵六・海軍次官・海軍大臣・勲一等旭日大綬章・海軍大将・朝鮮総督・勲一等旭日桐花大綬章・子爵・首相・内大臣・大勲位菊花大綬章)に、今しばらく、在京されたいと頼んでくれ」という依頼だった。
そこで岡田大将は斎藤邸に電話して都合を聞き、同日午後三時、四谷の斎藤邸を訪問した。岡田大将は斎藤総督に次のように言った。
「私は別に何とかして下さいとは申さぬが、何となく今度は只ではおさまらないで、見苦しい場面を生ずる予感がする。どうか今しばらく滞在せられたい(朝鮮に帰るのを延ばしてほしい)」。
さらに岡田大将は、軍縮に関する自己の意見を吐露した。これに対し斎藤総督は次のように述べた。
「その外に途はない、その方針で進まれるがいい。しかし、自分は今夕、出発のことにすべての準備ができている、これを今更変更するのは却って宜しくない」。
岡田大将は「今後も何分助力を願う」旨を述べて、斎藤邸を辞した。
一九三〇年(昭和五年)から一九四〇年(昭和十五年)までの間における西園寺公望をめぐる政局の裏面を記した原田熊雄の日記、「原田日記」は、昭和二十五年に「西園寺公と政局」(原田熊雄・岩波書店・全八巻・別巻一)として出版された。
今回の岡田大将の動きについては、「西園寺公と政局」には、次のように記してある(要旨)。
「浜口首相と幣原外相との話し合いの結果、幣原外相が岡田大将と会見して、岡田大将の斡旋を依頼したところ、岡田大将は『どうも自分一人では軍令部長を抑えるわけには行かないから、斎藤朝鮮総督と一緒に努力しましょう』と言って、斎藤総督に会ってなお数日帰任を延ばしてくれるよう頼んだ」
「けれども、総督も『あまり長く東京にいすぎたので今更延ばすわけにもいかぬ』という話であったので、岡田大将は斎藤総督に海軍の内部の纏め方について説明してただ同意を求めたところ、『至極尤もだ、ぜひその方法でやれ』ということで別れた」。
以上の記述から、岡田大将の手記と「原田日記」は大体において筋は合っていた。
「外交五十年」(幣原喜重郎・中央公論新社)によると、幣原外務大臣のロンドン会議全権の請訓に対する考え方は、何とかして海軍軍縮に関する協定を妥結しようとするものであり、次のように記されている。
「米英を相手に会議がほとんど行き詰ったが、どうしようかという最後の請訓が来た。これは思い切って纏めるより仕方がない。海軍の連中から説明なんか聞いていたら、とっても纏まりやせん。軍令部長の加藤(寛治)などの説には重きをおかないで、これだけの兵力量ということを、ピシャリと決めてしまった」。
幣原は以上のようにアッサリとしたことを言っているが、この本は戦後に語ったことを出版したものだから、これだけハッキリ言えるが、当時はこれほど気楽にものが言える状況ではなかった筈である。だが、これは幣原の本音であったことは確かだ。朝鮮総督・斎藤実海軍大将についても、次のように述べている。
「その頃海軍の先輩である斎藤実子爵が朝鮮総督をしていたから、財部君も京城で意見を交換したであろう。これは私は当時誰にも洩らさなかったが、その頃私は斎藤総督から私信を貰った。その手紙には、海軍部内とハッキリ書いてはいなかったが、わけのわからん説にあまり耳を貸しすぎて、この重大な問題を打ち壊すことのないように、そういう暴論は全然無視して、邁進しれくれというようなことが書いてあった」。