陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

252.山口多聞海軍中将(12)第二航空戦隊は三人の信長的な武将によって采配されることになった

2011年01月21日 | 山口多聞海軍中将
 後日、南雲中将は兵学校同期の第十一航空艦隊司令長官・塚原二四三中将と山本司令長官に、ハワイ作戦の中止を具申した。

 だが、山本司令長官は「私の目の黒いうちは、中止はない。作戦が承認されなかった場合、即刻辞任する」と敢然と言い放ち、これを一蹴した。

 昭和十六年九月七日、佐世保軍港に在泊中の空母「飛龍」は新艦長を迎えた。「炎の提督・山口多聞」(岡本好古・徳間文庫)によると、新艦長は、海軍兵学校時代、暴れん坊の上級生、山口多聞(海兵四〇次席・海大二四恩賜・中将)に少なからずしごかれた加来止男(かく・とめお)大佐(海兵四二・海大二五・少将)だった。

 加来大佐は一貫して航空畑を歩み、七、八年前には連合艦隊航空参謀をつとめた。登舷礼のあと、司令官室で両人は久闊を叙した。兵学校以来だった。

 「あの時の山口先輩は歴史上のいかなる猛将よりもおっかなかったですよ」と加来大佐が言うと、山口少将は次の様に言った。

 「すまなかったな、いつも君は大きく目を見開き直立不動の姿勢で、俺の鉄拳を甘受してくれた。大柄で、たくましそうだから、つい、パンチの数も多くなったな。出る杭は打たれる、というからな。すまなかったよ」

 加来大佐は見事な八字ひげを具えていた。山口少将は、しげしげとその顔を見て「ほう、加来君、君はひげを生やすと、俄然俺の目にはイメージ満点に映るよ。全く」と言った。

 加来大佐は「はあ・・・・・・ひげは、別に強そうに見えるからではなく、なんとなく生やしただけですが」と答えた。

 山口少将は加来大佐の顔を改めて見た。全く、信長をほうふつさせる。信長が、性格を一新してすこぶる上機嫌で愛想良くなったといった面差しであった。

 山口少将は「君は熊本出身だったな。ああ、八代・・・・・では、神風連の乱の気風を多分に受け継いでいるんだ。君も兵学校では、俺と同様、名うての暴れん坊だった。だから、俺に良く殴られた。君はせっかちで、行動的な気性だろう」と言った。

 加来大佐は「はあ、ぐずぐずするのは性に合いません」と答えた。

 山口少将が「俺もそうよ。江戸っ子だから、がたがた言わずに早いとこやっちまえ、言いてえんだ」と言うと、「私も同感です。これまで海上、司令部、陸上を転々とする度に、上層部の判断決断の遅さ、消極性にやきもきし、腹を立て通しでした。海軍もお役所ですね」と加来大佐は答えた。

 山口少将も「俺もよほど上官を殴り、乗艦を沈めてやろうかと何度思ったかも知れない。平時ならそれでもよいだろうが、一瞬一瞬が戦機に関る戦時になったら、と、今から心配だな」と同調した。

 加来大佐はさらに続けた。「勇者は逃げ腰も用意して攻撃にかかれ、という兵の要諦もよく分かりますが、思慮とためらいがすぎるともう戦力ではなくなりますよ。とりわけ、将官たる者はそれを肝に銘じなければ」。

 これに対し山口少将は「慎重な泥棒猫ではなく、果敢な喧嘩犬になろうよ。人間すべからく死のうは一定、ここぞと思い決したら突進する桶狭間の信長になることだ」と言った。

 加来大佐も「存分に奮迅したいものですね。そして荘重な散華を、できれば大海の只中で・・・海軍軍人として最高の掉尾(ちょうび・最後、終わり)です」と言った。

 山口少将は「同感だ、加来君」と言ったものの、山口少将は少なからず鼻白む思いだった。加来大佐は山本五十六大将の航空用兵論の忠実な担い手ではあるが、驚いたことに、山本大将とは反対に熱心な艦隊派だったのだ。

 加来大佐は、国辱められれば即、英米を討つとするタカ派だった。だが、山口少将も多分にその気質を分かち持っていた。

 空母「蒼龍」艦長の柳本柳作(やなぎもと・りゅうさく)大佐(海兵四四・海大二五・少将)も剣道の名手で、至誠あふれる情に厚い人柄は部下に慕われ、さながら山中鹿之介をほうふつさせた。「俺は最後には腹を切って果てたい」と日ごろから周囲へ洩らしていた。

 第二航空戦隊は三人の信長的な武将によって采配されることになった。

 昭和十六年九月十一日から二十日までの十日間、連合艦隊は海軍大学校で「ハワイ作戦特別図上演習」を終えた。

 ところが、この時期になって、ハワイ攻撃の是非をめぐる論議が再燃した。南方攻撃を担当する第十一航空艦隊の参謀長、大西瀧治郎少将が突然、山口少将のところに来て意外な話を始めた。