昭和十六年十月十七日の夕刻、東條英機に首相の大命が降下した。丸別冊「日本陸軍の栄光と最後」(潮書房)の中の「人間東條英機」(亀井宏)によると、当時、すでに誰が首相の座にすわっても戦争をくいとめることは不可能に近い状態になっていた。
翌日の十月十八日、閣員名簿を奉呈、午後四時親任式を終え、東條内閣は成立した。東條はこのとき五十八歳。陸軍中将であったが、組閣と同時に大将に昇進、とくに現役に列せられて陸相ならびに内相を兼任した。
しかし、首相の座は東條自身が望んだものではなかった。宮中に呼ばれて、実際に大命の降下があるまで、全く予想もしていなかったらしく、あまりの意外さに東條は退出後も半ば茫然自失、顔面蒼白となっていたと、佐藤賢了ら当時の側近が語っていた。
東條の首相を奏請したのは、皇族内閣に反対した木戸幸一内務大臣だった。その理由は、対米戦に強硬な陸軍を押さえられるのは東條しかいないと思ったのである。また、東條の天皇に対する忠誠心もその理由の一つだった。
だが、東條内閣は、誰からも心底祝福されて成立したのではない。嫌っていたのは近衛文麿だけではなかった。たとえば、宇垣一成の「宇垣日記」には、東條の失敗を期待して「それみたことか」と待ちかまえていた連中が、同じ陸軍の上層部に多くいたことが分かる。
当時「忠臣東條」は有名であった。しばしば内奏をし、閣議や統帥部の会議等を宮中で執り行った。そして、上奏の帰り車中で秘書官らに「今日もお上にやりこめられちゃった」などと言い、「私たちはいくら努力しても人格にとどまるが、お上はご生来神格でいられる」と述懐したという。
木戸内府の思惑通り、事実、東條首相は対米交渉に望みをつないでいた。それは陸相時代とは違った顔であった。「参謀本部日誌」の中に、「東條の変節漢」などという文章が記録されている。
昭和十六年十一月一日、内閣と大本営(陸海軍統帥部)との連絡会議において大激論がかわされた。激論は二日午前一時半まで、十七時間にわたって行われた。
その席上次の様な応酬があった。
参謀次長・塚田攻中将「統帥部の掛け値なしの要求をいいます。本日この席で『開戦を直ちに決す。戦争発起を十二月初頭とす』の二つを決めてもらいたい。外交はやってもよいが、作戦準備は妨害するな。外交の期日を十一月十三日と限定するよう重ねて要求する」
外相・東郷重徳「十一月十三日は、あまりにひどい。海軍は先ほど十一月二十日といった」
首相・東條英機大将「十二月一日にはならぬか。一日でも長く外交をやりたい」
参謀次長・塚田攻中将「絶対に不可。十一月三十日以上は絶対にいかん。いかん」
海相・嶋田繁太郎大将「塚田君、十一月三十日は何時までだ。夜十二時まではいいだろう」
参謀次長・塚田攻中将「夜十二時まではよろしい」
以上のようなやりとりが行われた。総理大臣が参謀次長に叱責され、大臣が伺いを立てている。当時、いかに統帥権というものの力が強かったかが分かる。
十一月二日午後五時、杉山、永野陸海軍両統帥部長と列立した東條英機首相は、涙を流しながら、連絡会議における討議の経過および結論を天皇に上奏した。
このとき、永野修身軍令部総長は、天皇から「海軍はこの戦争を通じての損害をどのくらいと見積もっているのか」と、問われて、
「戦艦一隻、重巡洋艦二隻、軽巡洋艦四隻、飛行機千八百機ぐらいかと考えます」などと答えている。
それにしても、その物的損害見込みの過小さには驚かされる。彼らが当初、いかに対米戦を小規模に考えていたか分かる。
東亜連盟協会は反東條の旗を高く掲げた思想団体だった。石原莞爾中将が唱える東亜連盟論にもとづいて、木村武雄代議士らが中心になって結成した団体だった。
また、東亜連盟協会と同じく、皇道翼賛青年連盟も、東條首相の独裁と戦争指導に対して反旗を翻していた。その中心人物は毛呂清輝であり、東條打倒工作を進めていた。
ところが毛呂たちは、突然憲兵隊に検挙された。だが、証拠がなく、彼らは釈放された。ところが東條首相は彼らを、そのままにはしておかなかった。
翌日の十月十八日、閣員名簿を奉呈、午後四時親任式を終え、東條内閣は成立した。東條はこのとき五十八歳。陸軍中将であったが、組閣と同時に大将に昇進、とくに現役に列せられて陸相ならびに内相を兼任した。
しかし、首相の座は東條自身が望んだものではなかった。宮中に呼ばれて、実際に大命の降下があるまで、全く予想もしていなかったらしく、あまりの意外さに東條は退出後も半ば茫然自失、顔面蒼白となっていたと、佐藤賢了ら当時の側近が語っていた。
東條の首相を奏請したのは、皇族内閣に反対した木戸幸一内務大臣だった。その理由は、対米戦に強硬な陸軍を押さえられるのは東條しかいないと思ったのである。また、東條の天皇に対する忠誠心もその理由の一つだった。
だが、東條内閣は、誰からも心底祝福されて成立したのではない。嫌っていたのは近衛文麿だけではなかった。たとえば、宇垣一成の「宇垣日記」には、東條の失敗を期待して「それみたことか」と待ちかまえていた連中が、同じ陸軍の上層部に多くいたことが分かる。
当時「忠臣東條」は有名であった。しばしば内奏をし、閣議や統帥部の会議等を宮中で執り行った。そして、上奏の帰り車中で秘書官らに「今日もお上にやりこめられちゃった」などと言い、「私たちはいくら努力しても人格にとどまるが、お上はご生来神格でいられる」と述懐したという。
木戸内府の思惑通り、事実、東條首相は対米交渉に望みをつないでいた。それは陸相時代とは違った顔であった。「参謀本部日誌」の中に、「東條の変節漢」などという文章が記録されている。
昭和十六年十一月一日、内閣と大本営(陸海軍統帥部)との連絡会議において大激論がかわされた。激論は二日午前一時半まで、十七時間にわたって行われた。
その席上次の様な応酬があった。
参謀次長・塚田攻中将「統帥部の掛け値なしの要求をいいます。本日この席で『開戦を直ちに決す。戦争発起を十二月初頭とす』の二つを決めてもらいたい。外交はやってもよいが、作戦準備は妨害するな。外交の期日を十一月十三日と限定するよう重ねて要求する」
外相・東郷重徳「十一月十三日は、あまりにひどい。海軍は先ほど十一月二十日といった」
首相・東條英機大将「十二月一日にはならぬか。一日でも長く外交をやりたい」
参謀次長・塚田攻中将「絶対に不可。十一月三十日以上は絶対にいかん。いかん」
海相・嶋田繁太郎大将「塚田君、十一月三十日は何時までだ。夜十二時まではいいだろう」
参謀次長・塚田攻中将「夜十二時まではよろしい」
以上のようなやりとりが行われた。総理大臣が参謀次長に叱責され、大臣が伺いを立てている。当時、いかに統帥権というものの力が強かったかが分かる。
十一月二日午後五時、杉山、永野陸海軍両統帥部長と列立した東條英機首相は、涙を流しながら、連絡会議における討議の経過および結論を天皇に上奏した。
このとき、永野修身軍令部総長は、天皇から「海軍はこの戦争を通じての損害をどのくらいと見積もっているのか」と、問われて、
「戦艦一隻、重巡洋艦二隻、軽巡洋艦四隻、飛行機千八百機ぐらいかと考えます」などと答えている。
それにしても、その物的損害見込みの過小さには驚かされる。彼らが当初、いかに対米戦を小規模に考えていたか分かる。
東亜連盟協会は反東條の旗を高く掲げた思想団体だった。石原莞爾中将が唱える東亜連盟論にもとづいて、木村武雄代議士らが中心になって結成した団体だった。
また、東亜連盟協会と同じく、皇道翼賛青年連盟も、東條首相の独裁と戦争指導に対して反旗を翻していた。その中心人物は毛呂清輝であり、東條打倒工作を進めていた。
ところが毛呂たちは、突然憲兵隊に検挙された。だが、証拠がなく、彼らは釈放された。ところが東條首相は彼らを、そのままにはしておかなかった。