陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

186.東條英機陸軍大将(6)あの東條のような大馬鹿者の言うことを聞くから、大きな間違いをする

2009年10月16日 | 東條英機陸軍大将
 東條英機の父、東條英教は陸軍大学校一期生でメッケルに師事し、陸大を首席で卒業、明治天皇から恩賜の軍刀一振りを賜った。ドイツにも留学し、作戦統帥の権威として頭脳明晰な英教は、当時、将来は陸軍大臣、陸軍大将と栄進するものと見られていた。

 だが、日露戦争で東條英教は旅団長として指揮に問題がありと烙印をおされた。また当時、長州閥が陸軍を支配していたため出世を妨げられ(山縣有朋ににらまれた)、日露戦争後、中将に昇進の上、予備役にされた。

 このような父の状況から、東条英機は、長州閥を敵視し、陸軍大学校に長州出身者を入学させないなど長州閥の解体に尽力した。

 昭和十六年十一月、寺内寿一陸軍大将(陸士一一・陸大二一)は、南方軍総司令官に就任した。寺内寿一は寺内正毅元帥(第十八代内閣総理大臣)の長男である。

 寺内正毅は長州出身で、東条英機の父英教が陸軍少将で参謀本部第四部長のとき、参謀次長だった寺内正毅により旅団長に左遷された。また、英教を予備役にしたとも言われている。

 このようなことから、寺内寿一大将は、東條首相にとっては父英教の仇敵の子供でもあり、長州出身であるから、当然敵視していたといわれる。

 一方、寺内寿一大将も、東條首相を愚物と見て頭から軽視していた。

 だが、当時寺内寿一大将は、閑院、梨本両元帥殿下につぐ陸軍最高の長老で、東條首相も露骨な排斥はできなかった。

 だが、太平洋開戦は、その格好の機会を与えた。東條首相は陸相も兼ねているので、寺内大将を南方軍総司令官として、遠く南冥の地に追いやったのである。

 寺内大将はシンガポール、サイゴンから一歩も動けない立場に置かれた。

 後に、インド独立軍のチャンドラ・ボースが、日本と共にインドへ進軍するために、日本軍の数と装備について、寺内大将のところへ調査に来たことがあった。

 ところが、そのあまりの兵力の乏しさ、装備のあまりの劣悪さに、チャンドラ・ボースは驚愕して顔色を変えて嘆いた。寺内大将はそのとき、次の様に言って笑ったと言われている。

 「フィリピンのラウレル大統領にしろ、君にしろ、あの東條のような大馬鹿者の言うことを聞くから、大きな間違いをするのだ」

 とにかく南方軍総司令官・寺内元帥(昭和十八年六月元帥に昇進)と東條首相との間柄は極めて不良だった。

 「東條英機」(上法快男編・芙蓉書房)によると、東條首相が南方視察のとき、陸軍の最長老である寺内元帥に対して不遜の振る舞いがあり、これが不和の原因であると伝えられていた。

 また、東條参謀総長が、奉勅命令により南方軍司令部の位置をマニラに指定したことが、この不和に輪をかけた。

 当時、戦略上は、司令部の位置はマニラに釘付けにする必要はなく、マニラには戦闘司令所を移せば事足りたのである。これで寺内元帥は激怒したと言われている。

 西尾寿造(としぞう)大将(陸士一四次席・陸大二二次席)は、参謀次長、教育総監を歴任し、昭和十六年には支那派遣軍総司令官として凱旋した当時高名な軍人だった。

 だが、西尾大将は、その歯に衣を着せず、ズバズバと物を言う性格から、東條のやり方には常に厳しい批判を行っていた人物で、東條にとっては目の上のたんこぶであった。

 昭和十六年三月一日に西尾大将は軍事参議官に就任した。その後、昭和十八年四月頃、西尾大将は関西を視察した。そのとき、記者団の質問に答えて、次の様に言った。

 「俺は何も話すことはないよ。話が聞きたかったら、あの男に聞いたらどうだ。よく関西に出て来ては、ステッキの先でゴミ箱をあさるような男がいるだろう、あいつに聞いたらいいじゃないか」

 当時、各新聞の記者が、東條首相の朝の散歩についてまわっては「首相電撃的視察」などの提灯記事を書きたてたことに対し、西尾大将は痛烈な皮肉を見舞ったのだった。

 これが、憲兵隊を通して東條首相の耳に入った。一ヵ月後、西尾大将の前に陸軍次官・富永恭次中将(陸士二五・陸大三五)が現れた。

 富永中将は、突然予想もしなかった「待命」の内命を西尾大将にもたらした。その翌日、西尾大将は予備役編入の辞令を受け取った。

 西尾大将は当時、元帥の最有力候補だっただけに、予備役編入の知らせを聞いた国民は驚いた。だが、西尾大将はその後、昭和十九年七月二十五日、東京都長官に就任した。