花邑の帯あそび

1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…

「藍染め」について

2013-08-29 | 和の伝統色について

presented by hanamura ginza


はやいもので、まもなく 9 月となります。
日中の陽射しはまだまだ強烈ですが、
日が暮れるとだいぶ涼しく、
夜には虫の音が聞こえてくることもあります。

いよいよ秋も間近ということで、
花邑銀座店では、これからの季節の装いに向けて、
毎年ご好評いただいている
「更紗の帯展」を 8 月 31 日(土)から催します。

今回の「更紗の帯展」では、
更紗の他にも、江戸時代から明治時代につくられた藍の型染めの木綿布から
お仕立て替えした帯も、いくつかご紹介します。

そこで、今日は「藍染め」について、
お話ししましょう。

日本には、古来より藍染めによりあらわされてきた
独自の「青色」があり、
この「青色」は、海外の方から「ジャパンブルー」とも呼ばれてきました。

日本で藍が染められたのは、
飛鳥時代のころとされています。
この時代、すでに藍の染料となる植物も栽培されていました。

飛鳥時代から平安時代にかけ、
藍は貴族たちの衣装を染める染料として重宝されました。

室町時代のころには、
乾燥させた葉を発酵させて、藍色の成分を凝縮させる
「スクモ作り」という技法が考案され、
より深みのある藍色を染め上げることが可能になりました。

また、鎌倉時代に書かれた「平家物語」には、
「紺掻屋(こうかきや)」という記載もみられます。
紺掻屋とは、瓶に入れた藍を掻き混ぜる姿から付けられた呼び名で、
すでに現代のように、藍を発酵させて染め上げる技術が
発達していたことが分かります。

やがて、江戸時代に入って木綿が栽培されるようになると、
藍染めの木綿布が庶民の間にも広がりました。

また、型染めの技法も使われるようになり、
さまざまな柄行きがあらわされたものが多く製作され、
人気を博しました。

藍染めを生業とする紺屋(こうや、こんや)も増え、
各地の城下町には、紺屋が集まった紺屋町とよばれる一角が誕生しました。
当時、その年の流行は紺屋町に行けばわかるともいわれ、
こうした紺屋町は流行の発信地でもあったようです。

落語には、「紺屋高尾(こうやたかお)」という有名な演目がありますね。
花魁の最高位であった高尾太夫が、
一介の紺屋職人のもつ純粋な心に胸を打たれ、
紺屋の妻となるという物語です。

この物語で、高尾太夫の相手が紺屋だったのは、
当時、紺屋が庶民の間で馴染み深いものだったからでしょう。
藍を育てると愛を育てるとをかけたものかもしれませんね。

実際に、藍は生きているとも言われています。
藍の色素は、時間が経てば経つほど
より繊維の奥まで染みこみ、
深みのある色となっていくそうです。





上の写真の 2 枚は、江戸時代の後期ごろにつくられた
藍型染めの木綿布からお仕立て替えした名古屋帯です。

ざっくりとした木綿の繊維に染みこんだ
深くて濃い藍色が美しく、目を引きます。
時代を経ることで、さらに豊かで深い色合いとなった
藍色の美しさと粋な柄行きは、
いつの時代になっても色褪せることなく、
心に染みこむようです。

※上の写真の名古屋帯は 8 月 31 日(土)に
花邑 銀座店でご紹介予定の商品です。

●花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 9 月 12 日(木)予定です。
帯のアトリエ 花邑-hanamura- 銀座店ホームページへ
   ↓


最新の画像もっと見る

コメントを投稿