花邑の帯あそび
1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…
 




presented by hanamura


季節の変わり目のためか、
冷たい雨の降る天気がつづいていますね。
風邪をひかれた方も多いようです。

生命力のあふれる夏から静寂の訪れる秋、
そして、景色も深閑とする冬へと向うこの季節は、
どこか気持ちがメランコリックになってしまいますね。

四季のある日本では、
季節の変わり目によって気持ちが左右されることも
昔から多かったことでしょう。

しかし、冬がはじまれば、
新しい年ももうすぐです。
新年の前後には景気をつける意味でも
縁起の良いものを身にまといたいものです。

昔の人々も暗い気持ちを吹き飛ばすために、
あるいは降り掛かる災厄から身を守るために、
明るい一年を迎えるために、
身にまとう衣装に吉祥文様を取り入れてきました。
以前にもお話ししましたが、
着物や帯など、和服の意匠には、
そうした縁起の良い文様が多く取り入れられています。

今回お話しする「いわれ小紋」も、
吉祥文様があらわされた「江戸小紋」の一種です。

江戸小紋とは、
江戸時代に各地の大名が着用した
「裃(かみしも)」とよばれる装束が元になっています。
裃は、男性の第一礼装として、
お祝いの席や江戸城に登城する際に着用されたもので、
よく時代劇のなかで将軍や大名などが
身にまとっているのを皆さんもご覧になったことがあるでしょう。

裃には、細かでシンプルな文様が
一色でくり返し染め抜かれています。
裃に染められた文様は、もちろん近くで見ると
はっきりとした柄になっていますが、
微細なために遠目からでは無地に見えます。
逆にいえば、遠目では無地に見えるものの、
近づくにつれどのような文様なのかということがわかるという
たいへん粋な意匠になっているのです。

このような江戸小紋の文様を染めるときには
三重県の伊勢で彫られた型紙(※1)が用いられるのが一般的でした。

裃は、室町時代にはじめて武士が着用したようですが、
当時の素材は麻だったようで、
この時点では礼装用の着物ではなかったようです。
また、文様もそれほど細かくはありませんでした。

しかし、江戸時代になり、
平和な時代が続くようになると、
裃は武士にとって威をあらわすものとして、
重要なものになっていきました。

裃に染めあらわされた文様は、
細かいほど、高度な技が必要とされます。
そのことから、武士が身にまとう裃の文様の細かさは、
その大名が抱える職人の技術力の高さをあらわすものであり、
ひいてはその大名の権勢を誇示するものでもあったのです。

そのため、その技を競うように、
たいへん精緻な江戸小紋が多くつくられました。

そのなかでも、
鮫の皮をあらわした「鮫」、
基盤上に細かな点をあらわした「角通し」、
斜に点を並ばせて配した「行儀」は、
最も高度な技術力を必要し、
とくに「(江戸小紋)三役」とよばれています。

やがて、裃に染められる文様は、
ユニフォームのように、
各地の大名で着用できる文様が決められていきました。

たとえば、極々鮫文様は紀州藩徳川氏、
霰(あられ)をあらわした大小霰文様は薩摩藩島津氏、
菱に菊を配した菊菱紋は加賀藩前田氏などが有名です。

やがて、裃のような細かな文様を染めた着物があらわれ
庶民たちの間でも評判となりました。
これが現在の江戸小紋の原形です。

しかし、身分制が厳しかった江戸時代、
武士にとって装う着物は、
庶民との違いを明確にあらわし、
武士の力を庶民に誇示するためのものでもあったため、
庶民は、鮫や角通しなど、裃と同じ文様を染めることはできませんでした。

そこで、登場したのが、
「いわれ小紋」とよばれる江戸小紋です。

裃のように、柄行きの細かさは同じですが、
その文様は、裃に染められたモチーフとは異なります。
たとえば、富士山に鷹、なすという、
みなさんもご存じの縁起の良いモチーフを配した「初夢」文様、
大根を食すると消化が良くなり、
禍に当たらないとされた、
大根とおろしがねの組み合わせがモチーフの「大根おろし」文様、
難(南)が転(天)じるとの語呂合わせの
南天の実の文様。
中には「カニのはさみ」と「柿の木」「栗」「うす」があらわされた
「さるかに合戦」文様といったたいへん変わったものもあります。

「いわれ小紋」には、縁起が良く、
めでたい文様が多いようです。
また、遊び心が溢れている点も特徴で、
モチーフが巧みに組み合わされた文様には、
その当時流行った判じ絵のような面白味のあるものが
多く見られます。



上の写真は、「七転八起(しちてんはっき、またはななころびやおき)」という
四字熟語の格言があらわされたいわれ小紋です。
小さな文様なので、一見すると花文様のようにも見えますが、
よくよくみると、「七」「転」「八」「起」という文字が
巧みに組み合わされています。

職人たちの精魂込めた高い技術力もさることながら、
その遊び心の効いた題材や、デザイン力には
目を見張るものがあります。

また、武士が身にまとう裃に負けまいと
アイデアを絞った負けん気の強い江戸っ子の心にも触れるようで、
吉祥の文様ということだけではなく、
その職人の心意気を感じて
元気になった人々も多かったのではないでしょうか。

一見すると無地にも見える
精緻な文様が配された江戸小紋は、
これまた、日本ならではの
繊細な文化の象徴といえるでしょう。

※写真は花邑銀座店でご紹介している着物の文様です。

※1
花邑日記「江戸小紋について」をご参照ください。


花邑のブログ、「花邑の帯あそび」
次回の更新は11月2日(火)予定です。


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10月も、もう半ばを過ぎました。
風はだいぶ冷たくなり、
日が暮れるのもずいぶんと早くなりました。

暑くも寒くもなく、夜が長い秋には、
読書もすすみますね。
今日は「読書の秋」にちなみ、
書物の文様といえる、
「冊子(そうし、さっし)」文様について
お話ししましょう。

「冊子」というと、
現代では書物全般を指します。
しかし、文様としてあらわされる「冊子」は、
草紙とも書き、和紙を糸で綴じたものを指します。

冊子文様は、1 冊で意匠化されることはなく、
表紙だけのものや頁が開かれたものなど、
さまざまな状態の冊子が散らされて意匠化されていることが
多い点が特徴です。

また、四季の草花などの風景文様をともなったものや
絵や文字が冊子の中に配されたものなども多くあります。

このような冊子文様が着物や帯の文様として、
用いられるようになったのは、江戸時代の頃です。

こうした冊子は、
蔡倫(さいりん)によって紙が発明された中国から
飛鳥時代にもたらされました。
その後、日本でも製紙方法が考案され、
優れた紙の本が多く作られました。

平安時代になると、
経文や文学作品を書いた冊子が
貴族たちの間で広まるなど、
和紙を用いた多くの冊子がつくられました。

美しい和紙を用いてつくられた冊子は、
平安時代の貴族たちにとって、
身近な美術品でもあったことでしょう。

やがて、江戸時代になると、
典雅で華麗な平安時代の文化に対する憧れが高まり、
着物の意匠にも当時の文化の象徴である古典文様が
多用されるようになりました。
そのなかで平安時代に端を発する冊子の文様も
多く用いられるようになりました。

豊かな時代への羨望から
縁起が良いとされた古典文様ですが、
冊子文様ももともと「知恵がつく」ものとして
縁起が良いとされていました。
源氏物語などの古典を題材にしたものも多く、
いわば冊子文様は、平安時代の雅びの
シンボルともいえる文様なのです。

江戸時代には木版の技術が発達し、
印刷が行われるようになったことで
「絵草紙(えぞうし)」とよばれる
絵と文字が一体になった冊子がつくられるようになります。
現代でいえば「絵本」や「雑誌」のようなものです。

絵草紙は、庶民の間でも広く読まれるようになり、
絵草紙において扱われる内容も
当時の世相や流行を反映したものが多くなりました。
それにともなって、冊子文様のなかに配される題材も
古典の文学だけではなく、
当時人気を集めた歌舞伎の役者絵などもあらわされるようになり、
そうした意匠からは、
現代でも当時の文化の一端が垣間見ることができます。



上の写真は、
能を題材にした冊子文が配された絹布です。
表紙のほかに、開いた頁には
文字と絵が細かくあらわされています。

冊子のなかに配されたモチーフを眺めていると、
物語のくわしい中身まではわからないものの、
冊子というモノに対して
当時の人たちが感じていたであろう
ワクワク感やドキドキ感が伝わってくるように感じます。
それは、まるで私たちが買ってきたばかりの
真新しい雑誌や書籍の頁をめくるときのような
楽しみな気持ちと同じだったかもしれませんね。

※写真は花邑銀座店でご紹介している帯の文様です。

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次回の更新は10月26日(火)予定です。


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10月も、まもなく半ばになり
暦の上では寒露、
いよいよ秋も本番です。
山々では木の葉が色づきはじめるころですね。

街中でも紅葉した木々は、
見ることができますが、
大自然のなかで見る紅葉した山々の美しさには、
より心ひかれるものがありますね。

紅葉は、近くから眺めると、
1枚1枚の葉の色が違い、木の種類も様々です。
しかし、遠くから眺めると、
それぞれが響き合い、調和して
豊かな色彩となります。

今日お話しする「寄裂(よせぎれ)文様」も、
そうした意味では紅葉と似ているといえます。
ひとつひとつは異なる文様が、
お互いの趣きが響き合いながら調和した意匠なのです。

「寄裂」とは、文字通り、
さまざまな「裂(布)」を「寄」せて
1 枚の布地にしたものを指します。

こうした布地は、
現代では「パッチワーク」や「キルト」とよばれることもあり、
日本だけではなく、世界各地で昔からつくられてきました。

昔の日本では、
裂(きれ=布)は生活に欠かすことができないものでしたが、
庶民にとっては高価なものでした。

そのため、布地の一部が傷んでも、
捨てたりせずにその部分に異なる布を縫い合わせて、
用いることが多くありました。

また、傷んだ部分が多くなり、
それぞれが端切れとなっても
さらにその端切れを接(は)ぎあわせ、
1枚の布地として再利用をすることも
日常的に行われていました。

こうした慣習は、
いまでこそ「エコ」などともてはやされる文化ですが、
昔の人々は誰に言われずとも
モノをとてもだいじに扱い、
自然に無駄なく使っていたのですね。

しかし、江戸時代になると、
そうした「モッタイナイ精神」とは別に、
芸術的な意図から、
高価な裂を使用し、わざと繋ぎ合わせた布地が
つくられるようになります。
このような布地は「寄裂」とよばれ、
裕福な商人たちを中心に人気を集めました。

寄裂には、意匠が異なる複数の布地が用いられるため、
それらを、どのように、どんな形で組み合わせるか、
その布地のどの部分を使うと良いかといった部分において
つくり手には高いセンスが要求されます。

また、貴重な裂の良い部分を選び、
組み合わせていくわけで、
古来から慣習的に行われてきた、
エコロジーな布の接ぎはぎとは正反対に、
寄裂は無駄の多い、たいへん欲ばりで
贅沢なものといってもよいでしょう。

その寄裂のように異なる複数の裂を繋ぎあわせるのではなく、
寄裂をあくまでモチーフとして染めであらわした意匠を
寄裂文様とよびます。

複数の文様は 1 つの型紙で染め付けられるわけではなく、
それぞれ別の文様の型紙が存在し、
それを熟練の技ではめ込みながら染め付けていくのです。

高度な技術が必要とされることはもちろん、
寄裂文様をつくるうえで重要になってくるものは、
本来の寄裂と同様、センスです。
こうした複数の意匠が 1 つのスペースに混在するようなものは
一歩間違えれば、しつこく野暮ったいものになってしまいます。

しかし、それぞれの文様が調和し響きあうように計算され、
バランスがとられているような優れた意匠の寄裂文様は、
まるで交響曲のような重厚さや狂騒曲のようなおもしろみがあります。



上の写真は、丸文や唐花文、小花文などが寄せられた
寄裂文様の和更紗です。
数種の文様が単にあらわされているわけではなく、
文様と文様の間に仕切り線があるようにあらわされ、
異なる裂が寄せ集められているようなかたちで
意匠化されている点が寄裂文様の特徴です。
それぞれの文様が個性を放ちながらも
全体としてはとてもまとまりがあり、
「よく見ると、あれこんな文様が」と、
眺めるだけでも楽しい気持ちになってきそうですね。

「行楽の秋」で山々の紅葉というのも素敵ですが、
「芸術の秋」は「音楽の秋」…。
寄裂文様が奏でる響きに
耳を澄ませてみるのも良さそうです。

※写真は花邑銀座店でご紹介している帯の文様です。

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秋が深まりはじまる10月になりました。
ここ東京では、秋晴れのおだやかな陽気が続いています。

暑かった夏の火照りを冷ますような、
肌寒い雨の日もありましたが、
その雨も一段落といったところでしょうか。

来週の連休を利用して遠出される方も多いことでしょう。

今回は前回に引き続いて、
旅情を誘う街道にまつわる
大津絵の文様についてお話しします。

東海道の最も西方に位置する宿場町
「大津宿」は、滋賀県にある琵琶湖の南端に位置しています。
その大津宿は、江戸時代に多くの旅行者が休憩場所として利用する一方、
琵琶湖で獲れる魚などの物品が集まる町としても
栄えていました。

そのため、江戸時代の頃には
東海道の宿場町の中で最も人が多く、
たいへんな賑わいをみせました。

江戸から長い道のりを経て
京都へ向かう旅路では、
大津宿が最後の宿場町であったため、
旅人たちは、あと少しで京都というところで
しばしの休息を取りながら、
「やっとここまで来たなぁ」という
感慨も深めていたことでしょう。

一方、京都から江戸へ向う旅人にとっては、
最初の宿場町であったため、
長い旅路へと発つ不安な気持ちがあったことでしょう。
しかし、大津宿の活気は、
その不安な気持ちを
勇気づけてくれたかもしれません。

「大津絵」は、その大津で生まれ、
庶民の間で人気を博した民俗画です。

下の写真の和更紗は、
大正から昭和初期につくられたものですが、
大津絵の中でも人気のあった題材がモチーフとなっています。



猿が瓢箪を手に持ち、
なまずを押さえ込む図は瓢箪鯰(ひょうたんなまず)とも呼ばれ、
ぬらりぬらりと捉えどころがない様を表しています。

釣鐘を持つ人物の図は、弁慶の勇ましい様を表します。

槍を持つ武者の図は槍持ち奴と呼ばれ、
大名行列の先頭にたつ人物が
大名の威厳を借りて威張る様子を揶揄しています。

大津絵には、このように「人間味のある」
人物や動物の姿をユーモアと
風刺を込めてあらわしたものが多くあります。

大津でこうした大津絵が描かれるようになったのは、
江戸時代のはじめです。
当初は上のような風刺画ではなく、
お釈迦様などを描いた仏画でした。

この仏画は仏教を信仰する人々に
簡易的な護符として用いられました。
また、キリスト教徒が厳しかった弾圧から
身を守るために携帯したともいわれています。

江戸時代の中頃になると、
大津は多くの人々でにぎわうようになり、
信仰用の仏画だけではなく、
東海道を旅する人々ヘ向けた絵が描かれ、
お土産や旅中安全を願う護符として
売られるようになりました。

その題材は、時代を反映するような風刺画や
歌舞伎や浄瑠璃などのお芝居を題材にしたもの、
武者絵や美人画などでした。

しかし、明治時代になり
鉄道が各地で開通されるなど交通の便が発達し、
東海道を旅する人々が減ると、
大津絵は次第に人気がなくなっていきました。

さらに、異国の文化がもたらされ、
幾何学的なアールヌーボーが流行したことも、
人気の低迷に拍車をかけ、
やがて大津絵が描かれることは少なくなっていきました。

しかし、庶民の間で生まれ、
庶民の審美眼により評価され、育まれた大津絵は、
素朴ながら、いま眺めても斬新で、
おもしろいものが多いのです。

また、のびやかな筆使いには、
江戸時代に東海道を旅した人々の笑い声や
足音まで聞こえてきそうな躍動感があります。

ちなみに、滋賀県の大津市にある円満院門跡の境内には
江戸時代に描かれた大津絵を展示した
「大津絵美術館」があるようです。

秋のご旅行に京都方面へ行かれる方は、
ご予定に加えてみてはいかがでしょうか。

※写真は花邑銀座店でご紹介している帯の文様です。

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