花邑の帯あそび
1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…
 




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早いもので、7月も半ばとなります。
少しずつ陽射しが強くなり、
咲き始めた朝顔が本格的な夏の訪れを知らせているようです。
陽に向かって、空に届けとばかりに伸びる朝顔の蔓からは、
生命力が感じられますね。

生命力といえば、
この季節は雑草の力強さにも驚かされます。
雑草と言えどもかわいらしい花を咲かせるものもあり、
そういった花がアスファルトの割れ目などから咲いている姿は
とてもけなげで、愛らしいものです。

今日お話しする薊(あざみ)も、
そういった雑草の中のひとつです。

薊は、キク科に属する花で、
世界中で 300 種以上が発見されています。
そして、そのうちの 150 種が日本原産のものとされているのです。
少し以外なのですが、日本は薊の王国とも言えます。

緑色の草の中で、王冠のようなかたちをした紫色の薊の様子はとてもかわいらしく、
ついつい触れてみたい気持ちになります。
しかし、その葉には鋭い棘があり、
触れると痛みが走ります。

スコットランドでは、
この薊の棘で外敵から国を守ったという伝承があり、
薊を国花としています。

日本名の(あざみ)という呼び名も、
棘の鋭さに「驚きあきれる」という意味合いをもつ「あざむ」が
由来となっているようです。

薊は、古くから日本に自生し、
その昔は食用にもされていました。
また、その葉や根は熱を下げたり止血の効果があるともいわれ、
薬用としても用いられていたようです。

古くから馴染みのある花であったにも関わらず、
薊をモチーフとしたものは少なく、
意匠のモチーフとしてはじめて用いられたのも江戸時代の頃です。
当時つくられた陶器や小袖には、
薊が配されたものがいくつか見られます。
それでも、秋草や牡丹や梅に比べて、
その数は少なかったようです。

一方、薊は西洋でも国花とされたほど
人気のある植物のひとつでした。

とくに、19 世紀に西洋で流行したボタニカルアート(植物学的な絵)の中には、
アザミがモチーフとなった絵が多く描かれました。
ボタニカルアートのモチーフは、
野性的な野の花が多いのですが、
個性的なその姿はその中でも魅力的に見えたのでしょう。

日本でこのボタニカルアートが広まったのは
明治時代の頃です。
当時、西洋からもさまざまなボタニカルアートが輸入されました。

植物図鑑のような緻密なボタニカルアートの絵は、
日本でも人気となりました。
その中には、薊の絵が多くあったのでしょう。
大正時代につくられた着物の意匠には、
薊をモチーフとしたモダンな柄行きのものが多く見受けられます。



上の写真は麻地に手刺繍で薊があらわされた名古屋帯です。
麻の素朴な地風を背景にした薊の意匠からは、
ボタニカルアートのような雰囲気が感じられます。
落ち着いた色合いであらわされた薊は、
かわいいだけではなく、痛い棘の存在も感じられ、
薊の魅力が巧みに表現されているように思えます。

上の写真の「薊文様 手刺繍 麻 名古屋帯」は花邑 銀座店でご紹介中の商品です。

●花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」はすこしの間お休みさせていただきます。
次回の更新は 秋頃の予定です。


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梅雨雲が空に広がるすっきりとしない天気がつづいています。
晴れていても、急に雨となってしまう場合があり、
雨に降られないようにと、急ぎ足で家に帰る日も多くなりました。

どんよりとした天気の中、
商店街の軒下に巣をつくったツバメが
鳴きながらあちこちを低空で飛び交っています。
ツバメの巣立ちは、七夕の前後が多いようですが、
いつの間にかすっかり大きくなった雛をみると、
その日も近いように思えます。

七夕といえば、「織姫と彦星」ですね。

この「七夕伝説」は、
古代の中国でつくられたものと言われています。
その中国では、織姫は織女(しょくじょ)、
彦星は牽牛(けんぎゅう)という名前でよばれていました。

この七夕の時季に咲く朝顔は、
中国では「牽牛子(けんごし)」という名前だったようですが、
その名前は、七夕伝説に登場する「牽牛」に由来しています。
それは、開花時期が七夕と重なるということと、
花びらに星のかたちをした模様が見られるためのようです。

また、古代の中国では朝顔の種の芽になる部分に下剤の成分があるとされ、
薬用として用いられていました。

日本にこの朝顔=「牽牛子」が伝えられたのは、
奈良時代の頃とされていて、
遣唐使がその種子を薬として持ちかえったと言われています。
同じような頃に、七夕伝説も日本に伝わったようなので、
昔の人々はその名前の由来も含めて「牽牛子」を眺めたのでしょう。

ちなみに、「朝顔」という呼び名は万葉集にも登場しますが、
そのころは、特定の花を指した名前ではなく、
桔梗や蕣(むくげ)など、
朝に咲く美しい花のことをよんだものだったそうです。

「牽牛子」を「朝顔」とよぶようになったのは、
平安時代のころのようです。




江戸時代になり、武士や庶民の間で園芸が広まると、
朝顔の栽培が大流行しました。
江戸時代には、さまざまな花の品種改良が行われていましたが、
朝顔はその中でも多種多様に変化する花として注目され、
さまざまな朝顔がつくられるようになりました。

この時代につくられた浮世絵にも、
朝顔はたびたび登場し、文字通り絵に華を添えています。

江戸時代後期になると、朝顔は江戸のあちこちで栽培されていました。
その中でも入谷界隈に住む武士たちは競うように栽培し、
その美しさが評判となりました。

明治時代になると、
入谷では朝顔の栽培を植木屋が受け継ぐようになり、
この朝顔を見るために各地から人々が訪れたようです。

ちなみに入谷では、現在でもさまざまな朝顔が並ぶ「朝顔市」が
七夕の日をはさむようにして年に一回開催されています。

七夕の日に、朝顔市で「星」を眺めるのもまた、一興ですね。

●花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 7 月 10 日(木)
予定です。

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はやいもので、まもなく 6 月ですね。
東京では梅雨入りを前にして、
梅雨の走りのような雨の日が多くなりました。

湿度もあり、雨が降るたびに気温も高くなっているようで
少し前まで敬遠していた冷たい飲み物を
手に取るようになりました。

それでも季節の変わり目どきは胃腸も弱まり、
食あたりなども多いので、
冷たいものの取りすぎには気を付けていきたいところですね。

胃腸が弱っているときにぴったりの食べ物といえば、
今日お話しする「大根」です。

大根には、でんぷんやたんぱく質、脂肪の消化を助ける酵素、
「ジアスターゼ」が多く含まれています。
このジアスターゼは腸の働きを整える効果もあるようです。

また、大根は衣服などに付いてしまった血液のしみも落とすことができます。
これもたんぱく質を分解する「ジアスターゼ」の効果です。

昔から、演技がヘタな役者のことを「大根役者」と呼びますが、
これは、生でも煮ても、どのように調理しても消化が良くて食あたりしない大根の特性をあてはめ、
何をやっても当たらない役者という意味合いで付けられたようです。

大根は、遠い昔から日本で食されてきた食べ物のひとつで、
世界中でも日本ほど大根を栽培している国はなく、
世界の大根の生産量と消費量の約 90 %を日本が占めているようです。

その大根の起源は、地中海地方といわれています。
紀元前 2700~2200 年ごろの古代エジプトでは、
ピラミッドを建設する労働者のための食用にされていたと記録に残されています。

日本に伝えられた正確な年代は分からないようですが、
弥生時代には日本で栽培されていたようです。

文献では奈良時代に成立した『日本書紀』に於朋泥(おほね)
と記載されてあるのが最初で、
のちに「すずしろ」という名前で春の七草のひとつともされました。

江戸時代には、各地でさまざまな大根がつくられるようになり、
江戸時代後期に記された農書、『成形図説(せいけいずせつ)』には、
23 品種の大根が記載されています。

また、「大根役者」という呼び方も、
この時代に歌舞伎からでた言葉で、
当たり芸のある名優に比べ、当たり芸のない未熟な役者という意味合いで、
付けられたようです。

ちなみに、「まんが日本昔話」では、大根が多く登場します。
「まんが日本昔話」は、室町時代から江戸時代ころに考案された昔話をもとにつくられたものですが、
大根が時には主役に、ときには脇役にというように
さまざまな場面で登場します。

質素な家屋の囲炉裏にのせられた鍋に、
ぐつぐつと煮えられた大根を取り、
美味しそうにほふほふとほおばる人物といった場面が印象に残っている方も多いのではないでしょうか。

昔話には、現代のように食料が十分ではなかったためか、
食べ物が題材になったお話しが多くあります。
その中でも印象に残る大根の場面からは、
いかに大根が重宝されてきたのかが窺えます。


大根は薬用としても用いられたことから、
無病息災の意味合いで着物の意匠にも用いられています。




上の写真は大正時代ごろに作られた和更紗からお仕立て替えした半巾帯です。
段縞に大根の文様が規則正しく並べられた意匠が面白く小粋な雰囲気です。
大根を身につけて元気に次の季節を迎えたいですね。

※上の写真の「段縞に大根文様 和更紗 半巾帯」は 5 月 31 (土)から
花邑 銀座店で開催する「半巾の帯展」でご紹介する商品です。

●花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 6 月 5 日(木)
予定です。
※仕入れのため、 6 月 5 日(木)のブログはお休みします。たいへん申しわけございません。
次回の更新は、 6 月 12 日(木)予定です。( 6 月 4 日 )
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立夏を迎え、夏本番まであと少しといったところですが、
季節の変わり目のためか、
すっきりと晴れる日が少なく、肌寒い日が続くときもあります。
今年は端午の節句に雨だった地域が多く、
青空を泳ぐ鯉のぼりの姿を見られなかったのは
とても残念でした。

端午の節句は、もともと梅雨入り前に豊作を願う行事として
旧暦の五月五日ごろ(新暦では 6 月初旬から中旬)に行われていました。
現代では五月晴れに鯉のぼりといった光景を思い浮かべますが、
昔は、梅雨入り前のくもり空を泳ぐ鯉のぼりといった光景だったのでしょう。
ちなみに、「五月晴れ」といえば本来は梅雨の晴れ間のことで、
現代のイメージの「五月晴れ」とは意味が異なります。

端午の節句に鯉のぼりを上げる風習は、
江戸時代の頃よりはじめられました。

端午の節句は男児の成長を祝う行事ですが、
武士の家では、先祖から受け継がれた兜や鎧などを飾り、
戦の時に上げる家紋入りの幟旗(のぼりばた)を上げたようです。

この武家ならではの風習を取り入れたのが、
当時の商人たちです。
商人たちは、武家に負けじと幟旗を真似た吹流しを上げるようになりました。
しだいにこの吹流しも優劣を競うようになり、
鮮やかな色に染めたものや、
絵をあらわしたものが登場しました。
そして、さらに時代を経ると
現代でもお馴染みの鯉の絵図が描かれるようになりました。

空を泳ぐようにひらひらと舞う鯉のぼりの姿は、
いまみても圧巻ですが、当時の人々もその光景を楽しんでいたことでしょう。

当時、こうした鯉のぼりを上げるのは江戸のみだったようで、
歌川広重の描いた「名所江戸百景」の中にも、
江戸の街に鯉のぼりが上げられた情景があらわされています。

鯉のぼりのモチーフとなった鯉は、
古来の中国では「龍門」という急流を登り、
やがて龍になる生き物と考えられていました。
日本でもこうした考えが広められ、
出世魚といわれて、鯉が流れに逆らって泳ぐ姿や、
滝を登る姿が縁起がよいとされてきました。

実際、鯉は他の魚に比べて生命力が強く、
なかには 70 歳まで生きるものもいるようです。
また、水が汚れていても大丈夫で、
環境適応能力にも優れています。

川などに棲息している自然の鯉は、
黒色のものが多いのですが、
こういった鯉は「野鯉」といわれています。
野鯉は古くから日本に棲息して、
魚が獲れない地域では貴重なたんぱく源として
重宝されたようです。

一方、黒色以外の鯉は「色鯉」といわれ、
観賞用に色を改良されたものを「錦鯉」と呼びます。
錦鯉の飼育は、江戸時代末に新潟県ではじめられ、
きれいな色柄の錦鯉は高額で取引されています。

公園の池などでも、こうした錦鯉を目にする機会がありますね。
錦鯉は、その色柄によって紅白、浅黄、黄金などの名前が付けられ、
現在では海外(とくに中国)にも多く輸出されています。





上の写真は、大正~昭和初期ごろにつくられた絹布からお仕立て替えした半巾帯です。
飛び跳ねるような姿であらわされた鯉の絵図からは、
躍動感が感じられます。
つぶらな瞳の表情もかわいらしいですね。
鯉は、このように吉祥の文様として着物の意匠にも多く用いられています。


※上の写真の「波に鯉文様 型染め 半巾帯」は 5 月末に花邑 銀座店で開催予定の「半巾の帯展」でご紹介する商品です。

●花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 5 月 22 日(木)予定です。
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まもなく 5 月。
風に揺れてすいすいと泳ぐ鯉のぼりが
新緑の合い間に見え隠れしています。
初夏の陽射しに照らされた若葉が目に眩しいですね。
すっかり葉桜となった桜をみると、
少し前までは、満開だった桜景色がうそのように感じられます。
また、道端で鮮やかな黄色い花を咲かせていたタンポポも、
白い綿毛へと姿を変えています。

春から初夏にかけたこの季節は、
桜やタンポポ、藤や百合、杜若や紫陽花などの花々が
バトンを渡すように順に咲いていきます。
それらの花々を眺めていると、
一層季節の移ろいが感じられるものです。

花は、遠い昔から季節感をあらわすものとして、
和歌や俳句などに多く登場しますが、
これからの季節といえば、杜若ですね。

杜若を題材にした作品といえば、
「伊勢物語」の八つ橋の場面で詠まれた
「唐衣着つつなれにし妻しあれば
はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」
(着馴れた唐衣のように添い馴れた妻が都にいるからこそ、
はるばるきた旅路に思いを馳せる。)
が有名です。

この和歌は、
か  唐衣
き  着つつなれにし
つ  妻しあれば
ば  はるばる来ぬる
た  旅をしぞ思ふ

というように、「折句(おりく)」という言葉遊びにもなっています。

古代の人々は、杜若と聞くと
「伊勢物語」の八つ橋の場面を連想したといわれるほど、
有名な和歌です。

「伊勢物語」は、平安時代初期に書かかれた歌物語で、
「昔男」とよばれる主人公の生涯を中心に
物語が構成されています。

着物の意匠をはじめ、
調度品や絵巻物などには
伊勢物語の一場面や、
和歌を題材にしたものが多く見られ、
古くから日本文化のなかで
人気のあったことがうかがえます。

主人公の「昔男」のモデルについては
正確には分からないようですが、
古くから「在原業平(ありはらのなりひら)」ではないか
と言われてきました。

在原業平は平安時代初期の貴族で、
平城天皇(へいぜいてんのう)の孫にあたります。
和歌に親しみ、和歌の名人を選んだ「六歌仙」や「三十六歌仙」に
その名前を見ることができます。

百人一首の中にも、
「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは 」
という和歌が選ばれているので、
在原業平を知らなくても、
この和歌を聞いたことがある方は多いでしょう。

「伊勢物語」の主人公と目されるのは、
在原業平が和歌を得意としていたことはもちろん、
色男として有名だったこともあります。
昔の人々は、在原業平を色男の代名詞としても用いていたようです。

さて、この在原業平の名前がついた
「業平菱(なりひらびし)」という菱文様があります。
業平菱は、三重襷(みえだすき)という菱文様のなかに
四つ菱を入れたもので、有職文様※のひとつです。
この菱文様を在原業平が好んで用いたことから付けられた名前のようですが、
「業平」という名前がつくだけでも、雅な印象がします。



上の写真は、大正~昭和初期ごろにつくられた丸帯からお仕立て替えした名古屋帯です。
檜扇と御所車、笛などの平安時代を象徴する器物に四季の草花が配され、
その草花の背景に業平菱文様があらわされています。
このように業平菱は、
平安時代の煌びやかな文化をあらわすもののひとつとして
描かれることが多いようです。


上の写真の「扇に御所車と草花文様 染めに手刺繍 名古屋帯」は花邑 銀座店でご紹介中の商品です。

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