花邑の帯あそび
1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…
 




presented by hanamura ginza


まもなく10月ですね。
永遠に続くように思われた残暑も、
ようやく過ぎ去ったようで、
東京では、一日中秋雨が降る日もあり、
朝晩は、上着が必要なほど肌寒い日も多くなりました。

今年は仲秋の名月が 9 月 30 日ということで、
日曜日には、澄んだ夜空に浮かぶお月さまが
眺められると良いですね。

俳句では、この仲秋の名月が
秋の風情をあらわす行事として、
秋の季語に用いられています。

その他にも秋の季語といえば、
虫の声や紅葉、鱗雲、稲刈り、栗拾い、きのこ狩りなどが
挙げられるでしょう。

この言葉を聴くだけでも、
秋の情景が思い浮かび、
風情が漂ってくるようですね。

そのような季節の季語は、
お着物の意匠にも、モチーフとして用いられています。

そこで今日は、秋の季語にもなり、
古来より、日本文化との関わりが深い
「鹿」の文様について、お話ししましょう。



鹿は、古来より世界各地に棲息する動物で、
その種類は36種にものぼります。
ちなみにクリスマスに活躍するトナカイも、この鹿の一種ですね。

日本に棲息する鹿は、「ニホンジカ」と呼ばれています。
ニホンジカは、「ニホン」という名前がついていますが、
日本特有の鹿ではなく、ロシアから東アジアの沿岸に棲息している鹿の一種です。

ニホンジカは、遠い昔から北海道から九州にかけて広く棲息していて、
人とも深い関わりをもってきました。

縄文時代の遺跡からも、シカの骨が多数発掘されていて、
当時から人々にとってシカが貴重な食料となっていたことが窺えます。
また、シカは食用としてだけではなく、
その皮は衣類などの材料に、
角は釣り針などの日用品や、装飾品の材料として用いられました。

「シカ」という名前も、
「肉」をあらわした「シシ」と「毛皮」をあらわした「カ」が
組み合わされたものと考えられています。

弥生時代になり、稲作が広まると、
狩猟採集が少なくなったこともあり、
シカを食用にすることが減っていきました。

その一方、この時代からシカが神格化されるようになり、
祭祀器のひとつである銅鐸(どうたく)には、
シカの文様が彫りあらわされるようになりました。

古墳時代になると、
当時の権力者であった物部(もののべ)氏が
現在の茨城県である常陸国(ひたちのくに)で祀っていた氏神の社にて、
シカを神の使いとし、その氏神の社のなかでシカが飼われるようになりました。
のちにこの氏神の社が鹿島神宮や香取神宮とよばれるようになったようです。

また、藤原氏はこの鹿島神宮の神鹿(しんろく)を
奈良の春日大社に持ち込み、
以降、春日大社でもシカを神聖化し、
境内でシカを飼育して、手厚く保護をするようになりました。

奈良時代になると、
シカは和歌のモチーフとしても、多く用いられるようになります。
とくに、9 月から 11 月にかけた繁殖期には、
雄のシカ同士が、雌を巡って独特の鳴き声をだしながら争う光景がみられ、
秋の風景とともに、その様子を恋愛の象徴とし、
哀愁を込めてあらわした和歌が多くつくられました。

また、正倉院には当時の中国から日本にもたらされた
六花形の銀製の脚付き盤「金銀花盤(きんぎんのかばん)」が
伝えられています。
これは供養具として使用されていたようですが、
こちらにも「花鹿」とよばれるシカのような動物があらわされています。
この「花鹿」の文様は、ペルシャからシルクロードを経て、
中国に伝えられたものとされています。

安土桃山時代には、
シカやウマといった動物を菱形や八角形で囲んだ文様が、
ペルシャ方面から中国を経て日本にもたらされました。
この文様があらわされた錦は、
有栖川宮家によって所蔵されたことから、
のちに名物裂の一種として、
「有栖川文様」、「有栖川錦」とよばれるようになりました。

江戸時代になると、
万葉集の和歌をもとにして
花札がつくられるようになり、
楓とシカを組み合わせた意匠が
秋を象徴する絵柄として広まりました。

ちなみに、江戸時代までは、
神鹿を殺した人は重罪となり、死刑となったようです。

このように、手厚く保護されていたシカですが、
明治時代になると、
文明開化にともない行き場がなくなり、
乱獲もあってその数は減っていきました。
しかしながら、同時にシカを保護しようという運動も盛んになり、
現在では、奈良の春日大社周辺に棲息するシカは、
天然記念物にも指定されています。

奈良の春日大社や奈良公園にいくと、
たくさんの鹿に会うことができますが、
優美でかわいらしい佇まいを眺めると、
昔の人々が神格化したのもうなづけるような気持ちになります。





上の写真の単衣の付け下げ小紋は、
鹿と蝶の絵図があらわされたものです。
地にいる鹿は裾のほうに、
空にいる蝶は上のほうに配置されています。
春を思わせる蝶と秋を思わせる鹿を組み合わせて、
どちらの季節にもご着用いただけるように考えられているのですが、
仰々しさがなく、とても上品です。

温暖化のためか、残暑も長く、
昨今では、単衣の時季もだんだんと伸びていますので、
暖色系のお色目の帯と合わせていただければ、
10月中旬~下旬ぐらいまでお楽しみいただけそうです。

「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき」


※上の写真の藤色地 花に蝶と鹿文 付け下げ小紋 単衣 は花邑銀座店でご紹介している商品です。

花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 10 月 11 日(木)予定です。

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9月もはやいもので半ばを過ぎ、
まもなく秋分の日を迎えます。

今年は、記録的な残暑ということで、
東北地方でも気温が 30 度を超える「夏日」がつづいています。
それでも、北海道などでは紅葉がはじまった地域もあるようなので、
「暑さ寒さも彼岸まで」ということわざのように、
もう少しで残暑が過ぎることを祈るばかりです。

残暑は続いていても、
気持ちはすっかり秋に向かっています。
お着物を選ぶときにも、
涼やかな色目から、落ち着いた色目のものに、
自然と目が行くようになりました。

日本人は、色によって季節感をあらわすことを、
古来よりごく当たり前のように行なってきました。
季節の移り変わりに敏感ということは、
豊かな四季を持ち、長く農耕生活を営んできた
日本ならではの感覚なのかもしれません。

こういった色彩感覚は、
世界中でも定評があるようで、
和の伝統色にも、実に多くの種類があります。

今日は、その和の伝統色の中から、
「紫根(しこん)色」についてお話ししましょう。

紫根色は、その名前のように、
紫草(ムラサキソウ)の根を染料にしてあらわされる
深く濃い紫色を指します。

紫草は、ムラサキ科に属する多年草で、
初夏から夏にかけ、小さくて可憐な白い花を咲かせます。
紫根の染料となる根は、その花が咲き終わり、
葉が枯れる10月~11月になると採取されます。

採取した根を熱湯に浸した後、
石臼で細かく砕き、麻袋に入れて、
湯に浸しながら揉みだしをします。
この揉みだしのときに、
麻袋からでる紫色の滴が染料液となります。

染料液に浸して紫色に染めた布は水洗いして、
椿の灰を入れた熱湯に浸します。
椿の灰は、紫根染めの媒染(ばいせん)として古来より用いられてきたもので、
発色を良くする効果があるのです。

この作業を数日にわたり繰り返し繰り返しつづけることで、
はじめて深みのある紫根色を染めあげることができるのです。



紫草の根を用いて染められた紫の色は、
古来より高貴な色として、珍重されてきました。

飛鳥時代に、聖徳太子が制定した冠位十二階の制の中では、
紫色がもっとも高い位の色と定められていました。
何度も何度も染められあらわされた濃い紫色は、
「深紫(こきむらさき)」や「黒紫(ふかきむらさき)」と呼ばれ、
天皇が身にまとう装束にはこの色が用いられました。

平安時代になってからも、紫色は尊ばれ、
清少納言は「枕草子」の中で、
「すべて、なにもなにも、紫なるものは、めでたくこそあれ。花も、糸も、紙も」
と記しています。

こうした価値観は、武士が力をもちはじめた鎌倉時代にも続き、
将軍などの身分が高い武士は、
紫色の縅(おどし)がついた甲冑を身にまとい、戦に向かいました。

江戸時代には、
南部藩(岩手県)でつくられる紫根染めが評判となり、
南部藩の紫根染めは、幕府への献上品とされました。

その一方、八代将軍の徳川吉宗が武蔵野で紫草を栽培させ、
紫根染めは広く知れわたるようになりましたが、
当時、紫根染めは染め賃が高く、
庶民では着ることができないものでした。

明治時代になり、海外から化学染料が輸入されるようになると、
草木染めは廃れていき、紫根染めの技法も忘れられていきました。

しかし大正時代になると、
紫根染めの技術を復活させようという人々が岩手県にあらわれ、
そうした人々の努力で、紫根染めがまた染められるようになりました。
当時、岩手県に住んでいた作家の宮沢賢治は、
『紫紺染について』という論文を書いていて、
その中でも紫根染めの復興に対する思いが語られています。

現在でも紫根染めの多くが岩手県でつくられています。
昔からの技術を受け継いできた紫根染めは
深みのある色合いで意匠の美しさを引き立てます。



上の写真は絹紬(白山紬)を用いた紫根染めのお着物です。
鹿の子絞りにより、縦縞文様があらわされています。
シンプルだからこそ、ごまかしのきかない絞り染めの意匠と相まって、
紫根という色の高貴な艶が煌めくように感じられます。

紫色は、平安時代に用いられた襲の色目の中でも、
組み合わせを変えることで、四季を通じて用いられている色です。
合わせる帯や小物によって、年中ご着用いただける色合いなので、
秋冬にはもちろん、季節の変わり目の時期にも、重宝いただけそうですね。

※上の写真の南部紫根染め 絞り染め 縞文様 白山紬 袷は花邑銀座店でご紹介している商品です。

花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 9 月 28 日(木)予定です。

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まもなく9月も半ばですね。
今年は残暑が長く、
9月に入ってからも、空に入道雲が浮かぶ暑い日が続いています。
涼しく、過ごしやすい秋が来るのを
待ち遠しく感じている方も多いのではないでしょうか。

そこで今日は、気持ちだけでも秋の風を感じていただけるように、
秋の風情漂う「柿文様」について、お話ししましょう。

秋は、「実りの秋」ともいわれるほど、
たくさんの果物が実をつけます。
その中でも、夕焼け空のような橙色の実をつける柿の姿は、
秋の情緒をより感じさせる果物といってもよいでしょう。
里山のあちらこちらで実る柿の光景は、
日本ならではの風景として、郷愁を誘います。

柿の木は、カキノキ科の落葉樹に属し、
その実は、古来より人々の大切な食料となってきました。
原産地である中国では、
西暦500年ごろには、すでに人の手で食用に栽培されていたようです。

その柿が中国から日本にもたらされたのは、
奈良時代のころです。
日本にもたらされた柿は、
日本の風土ととの相性が良かったため、
瞬く間に日本全国に広まり、栽培がおこなわれるようになりました。

「桃栗3年柿8年」ということわざのように、
柿は種から実をつけるまで、長い期間を要するのですが、
一度育ててしまえば、たいへん丈夫で長生きをして、
樹齢300年の柿でも、きちんと実をつけます。

柿は、その実だけではなく、葉にもビタミンCなどの栄養を豊富に含んでいます。
葉は乾燥させて、お茶としても飲むことができ、
漢方などでも用いられています。
お寿司を柿の葉で包んだ「柿の葉寿司」も有名ですね。

甘い柿の実はそのまま食することができ、
渋みのある柿は、外に吊るして干すと糖分がでて、
美味しい干し柿となります。
干し柿は、保存食ともなることから、
古来より災害時の非常食としても重宝されていたようです。

また、渋柿は、柿渋染めの原料としても、用いられます。
柿渋染めの染料は、青い渋柿を潰し、
絞った液を2年間保存して発酵させたものです。
柿の果汁には、防水効果や防腐効果、耐久力強化などの特性があるため、
柿渋で染めた布袋は、保存用の袋として重宝されました。

着物の染色に欠かかすことができない伊勢の型紙にも、
この柿渋染めが施されています。
ここでも、貴重な型紙を長持ちさせるために
柿渋の特性が利用されているのです。

このように、柿は人々の生活のなかで
なくてはならない果物として親しまれてきましたが、
意外なことに、意匠のモチーフとして、
柿の文様が用いられることは多くはありませんでした。

しかし、和の色名には、
「柿色」というよび名があり、
古くから服飾の世界と縁はありました。
このよび名は平安時代後期ごろに
つけられたもののようで、
実った柿の色のような色目を指しています。
夕焼けを写し取ったような柿の色の美しさは、
当時の人々にも印象的だったのでしょう。

また、この「柿色」を基準にして、
やや赤味がかった柿色を「紅柿(べにがき)色」、
淡い柿色を「洗柿(あらいがき)色」、
淡く、茶味の薄い柿色を「洒落柿(しゃれがき)色」、
茶系統の柿色を「柿茶(かきちや)色」とよびました。




上の写真は、
大正~昭和初期頃につくられた絹縮緬からお仕立て替えした名古屋帯です。
枝を覆うようにたくさん実った柿の姿からは、
秋の風情とともに、実りの秋を迎えた喜びまでも感じられるようです。

秋から初冬への装いにはもちろんのこと、
待ち遠しい秋に想いを馳せながら、
この季節に一足早く、秋の風物をあらわした意匠を身にまとうのも素敵ですね。

「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」 正岡子規

まもなく秋分。秋はすぐそこまできています。

※上の写真の枝付き柿文様 型染め 名古屋帯は花邑銀座店でご紹介している商品です。

花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 9 月 20 日(木)予定です。

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9月に入ってから、
季節の変わり目の
不安定な天気の日が多くなりました。
突然の雷雨に見舞われて、
雨宿りをすることもありますが、
雨が降るたびに、少しずつ涼しくなっているように感じられます。

暑い夏が少しずつ遠ざかり、
ほっと一息つくこの季節には、
次の季節に向けた準備にも気持ちが向きますね。

花邑 銀座店では、ただいま「更紗の帯展」を開催しています。
これからの季節の装いに向け、
洒脱で魅力的な更紗を厳選して、
お仕立てした帯を多数ご紹介しています。

今日は、その「更紗の帯展」でご紹介している帯の意匠から、
「巴(ともえ)文様」について、
お話しましょう。

巴文様とは、勾玉(まがたま)のようなかたちをした
C字形の文様を指します。
巴文様の由来にはいくつかの解釈があり、
勾玉が図案化されたものという説や
湧いてめぐり流れる水の姿が渦巻き状に文様化されたものという説、
弓を射るときに使う鞆(とも)が意匠化されたもという説
象形文字の蛇が変化したものという説、
など、定まっていません。

そもそも「巴」という漢字は「は」と読むべきもので、
「ともえ」とは本来読みませんでした。
しかし、「巴」という漢字の形状が巴文様の形に似ていたため、
「巴(は)」を「ともえ」とも読むようになったようです。

日本では、神社の神紋にこの巴文様を用いていることが多く、
生活の中でも目にする機会が多い文様です。

アジアやエジプト、スペインなどの世界各地でも
巴文様にかたちが良く似た文様を
見ることができます。
しかしながら、その形が意味するものは、
それぞれの国で若干異なります。
中国では「雷」、朝鮮半島では「陰陽における太極」
エジプトでは「蛇」などをあらわしたりもしています。

巴文様の種類も豊富で、
2つの巴が円形状に向き合ったものが二つ巴、
3つの巴が円形状に向き合ったものが三つ巴、
右に尻尾のような先端が向いているものを右巴、
左に尻尾のような先端が向いているものを左巴と呼び、
その数や巴の向きなどでよび名が異なります。

この巴文様が、いつぐらいから意匠に用いられたのかは、
定かではありません。
それでも、平安時代の装束には
すでに用いられていたようです。

水を意味する巴の文様は
家事などの厄よけとして、
神社の屋根瓦などに施されたりもしました。

平安時代の後期になると、
公家の西園寺家がはじめて家紋に巴を用いるようになりました。
ちなみに、平安時代の後期には、
『巴御膳」と呼ばれた武将の女性がいました。
巴御前は、信濃国の武将だった源義仲の妾だったともいわれていて、
能謡ではこの2人を物語に登場させた「巴」という演目があります。

鎌倉時代になると、武将も家紋に用いるようになります。
また、江戸時代には 350 もの武家が家紋に巴を用いていました。

この巴を意匠に用いたものが
江戸時代につくられた更紗にもあります。
この巴文様の更紗は、異国からもたらされた
「古渡り更紗」のなかにも見つけることができます。

更紗の発祥地、インドではこの時代になると、
輸出する国々の好みに合わせた文様を多くつくるようになっていましたが、
巴文様の古渡り更紗も、そういったもののなかのひとつだったようです。




上の写真の名古屋帯は、

大正時代につくられた和更紗からお仕立て替えしたものです。
伝統文様の三崩しと巴を組み合わせ、市松格子状に配した意匠は、
シンプルでモダンな雰囲気とともに、
古来より用いられてきた伝統文様のかたちの美しさが感じられます。

更紗というと、唐花文様を思い浮かべる方も多いかと思いますが、
上の和更紗のように、伝統文様や人物、器物などをあらわしたものも多くあります。
そういった更紗は、いま見ても小粋で、その意匠からは遊びごころが感じられます。

巴文様の解釈のひとつには、
新しいものと、受け継がれてきたものが混ざり合い、
ひとつのもの(縁)を形成するという意味合いもあります。
このような巴文様が配された古布を
帯などへお仕立て替えしていると
まさにぴったりな意匠だという気もくるのです。

※上の写真の三崩しに巴文様 和更紗 名古屋帯は花邑銀座店でご紹介している商品です。

花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 9 月 13 日(木)予定です。

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