花邑の帯あそび
1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…
 




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ただいま、花邑では「南国の花薫る紅型の帯展」を開催しています。

その企画展にちなんで、
前回にひきつづき、今回も紅型についてのお話をします。

「紅型」というのはよく誤解されがちなのですが、
文様やかたちではなく、技法の1つです。

「紅型」という名前は、
その技法によっていったいどのようなものがつくられるか
ということ自体を表しています。

かつて紅型の発祥地である沖縄では、
「紅」とは「(すべての)色」を示していました。
そして、型染めのことを「型」と呼んでいました。
つまり、「彩色を施した型染め」という意味で、
紅型は「彩色を施した型染め」のための技法になります。

紅型の「色」の原料には顔料を用います。
顔料とは、岩石などの鉱物からなる染料です。
この染料は他の染料とは違って、微粉末のもので、水に溶けません。
そのため、布に色が染み込まず、
色がそのまま布の上に定着するため、
鮮やかな色をそのまま表現することができるのです。

下の写真は布の表地と裏地を写したものです。
表地は鮮やかに染まっていますが、
裏地をみると、その色が全く染み込んでいないのが
わかりますよね。

表地

裏地


この顔料を用いて、色差し(※1)を2度行い、「隈取り」をします。
「隈取り」とは文様の中央や縁に濃い色を入れて、
その色をぼかしながら、染めることです。
こうすることで、色彩に陰影が生まれ、文様が引き立ちます。

また、文様をつくる「型」にも、
他の染織品にはない特長があります。
紅型の型紙を彫ることを「突き彫り」と呼びます。
「突き彫り」とは、小刀を用いて、突くように彫っていくことです。
つまり、小さな点の集まりで文様を彫っていくのです。

独自の技法でつくられる「紅型」は、
人々を魅了してきました。



芹沢けいすけ氏は、その紅型に魅了され、
「型絵染」という技法を生み人間国宝に指定されました。
さらに紅型は本州に渡り、京都や東京の文化と融合して
俗に言う「京紅型」や「東京紅型」が生まれました。
よく、「琉球紅型と京紅型や東京紅型の違いはなんですか?」
と聞かれることが多いのですが、
「現在では区別できなくなっているんですよ」
と花邑ではお答えしています。

確かに以前では京紅型には京都の風情が反映された、
やや“はんなり”とした色合いのものが多く見られたりして
色彩や柄行きなどから区別したこともあったのですが、
実際、紅型というのはあくまで「技法」を指すため、
その違いに線引きすることにはあまり意味がありません。

沖縄で紅型の技法を習得した職人さんは、
現在では各地に拡散しています。
たとえば、沖縄仕込みの紅型によって
静岡で製作をされている作家さんもいらっしゃいますが、
これを「静岡紅型」と呼ぶことはありません。

あくまで紅型は紅型なのです。

人々を魅了しつづける紅型は、
これからも各地で新しい文化を吸収しながら、
さまざまなものがつくられていくことでしょう。
花邑もいろいろな紅型との出会いを
いつも楽しみにしています。

(※1)文様を染めること。

花邑のブログ、「花邑の帯あそび」
次回の更新は3月17日(火)予定です。


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今日はひな祭りです。
ひな祭りに飾る花と言えば、可愛らしい桃の花。
桃の花は春の季語にもなっているので、
ひな祭りは春の訪れを祝う行事でもあるのでしょう。

さて、花邑では3月7日から紅型の帯展を催します。
これからの季節に咲く花のように
色鮮やかな紅型を多数並べてご紹介します。



紅型の特長とされるその鮮やかな色彩と、
のびやかな文様をみると、
まるで紅型の発祥の地である沖縄の海や空、草花を
そのまま映しとったように思えます。

この紅型は昔から人々の間で珍重されてきました。
紅型のはじまりは、15世紀頃の大航海時代のようです。
当時、沖縄を治めていた琉球王朝と
東南アジアや中国などとの交易がたいへん盛んになっていました。
紅型は、その他国との交易の中から生まれたものです。
その後、中国の型染めの技法や、友禅染めの技法を取り入れながら、
琉球王朝のもとで手厚く保護され、徐々に開花していきました。
紅型職人達は琉球王朝から多大な庇護を受け、
多くの工房が作られました。

当時の紅型は、異国の地で
「東洋花布」と呼ばれ、とても珍重されたようです。
また、琉球王朝の中でも、
王族や高官、貴婦人など高貴な人々のみ
着用が許された貴重なものでした。



しかし、17世紀に薩摩の琉球侵略によって琉球の王制が解体し、
琉球王朝の元で保護されていた多くの紅型職人が職を失い、
紅型をつくることが困難になりました。

また、その後の戦争で沖縄が地上戦の舞台になったことで、
紅型をつくるときに欠かすことができない型紙や作業道具を失いました。
そして貴重な職人も失われたのです。

しかし、戦後になり紅型三宗家といわれた「城間家」の城間栄喜氏、
「知念家」の知念績弘氏が大変な苦労とともに紅型を復興させました。
その後、日本全国に広がり、多くの紅型作家を生みました。
また、とく紅型に魅了された京都の友禅作家が
その技法を取り入れて、「京紅型」と俗にも呼ばれる紅型をつくりだし、
昨今では、その美しさがたいへん人気を得ています。

その紅型の技法、つまり紅型の定義とはどのようなものでしょうか。
次回は紅型の技法についてのお話しです。

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次回の更新は3月10日(火)予定です。


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