presented by hanamura
現在、一番ひろく活用されている名古屋帯。
この帯をいつ、誰が、このかたちを工夫し、
つくりあげたのでしょうか?
数年前、私の祖母が大切に持ち続けていた
一冊の本をみせてくれました。
それは著者杉江ぎんの『帯結び方百種』という本でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/27/e95189038331ef2e5986460754d93184.jpg)
そこには小津安二郎映画の着物担当や、
「ミセス」などの雑誌に掲載された着物で知られる
浦野理一さんのコメントが添えられています。
浦野理一さんはそのコメントで、
「和裁のなかでも特にむずかしい仕立の一つといわれる帯の仕立て、
今日では帯の大部分を占める名古屋帯も、杉江さんの創案になるものです。」
と、杉江ぎんが名古屋帯を創案したことをつたえ、
また、この本を評して、
「百種もの姿をつくり出すということは帯に対する深い、
愛情と理解がなければできないことです。」
と杉江ぎんに賛辞を贈っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/e5/9f81c4940ec5f3d6fad6a59d356ca669.jpg)
その杉江ぎんは、その生涯について
多くを語らない人だったようです。
少ない資料を参考にすると、
「明治31年、知多半島の農家に生まれ、
12才の時から針仕事をはじめました。
きもの、羽織り、袴など
なんでも縫いこなした」
とのことです。
その中で特に帯仕立てにこだわったのは、
「帯仕立てが一番むずかしかったからだ」
と杉江ぎんはこの本の中で語っています。
杉江ぎんは、家族がずっと幸せであるようにと願い、
一生懸命はたらきました。
大正7~8年頃、杉戸重次郎らと名古屋にて「名古屋帯」を創案。
創案当初は「田舎帯」とよばれ誰にも相手にされなっかたようです。
しかし、大正12年の関東大震災により、人々の生活が根本から変わり、
安くてしめやすい名古屋帯が注目されはじめ、
戦中、戦後を経て名古屋帯はまたたく間にひろがりました。
その後、東京日本橋にて『杉本屋』という帯の仕立て屋を開業。
昭和44年、杉江ぎん72才の時に、『帯結び方百種』(染織美術社刊行)の出版に至りました。
この本は限定二千部の非売品として製作、発行され、
親しい方や帯の仕立てに関わる人々に配られたようです。
私の祖父は杉江ぎんとは親戚にあたり、
杉本屋にて帯の仕立てを習っていたことが縁で、
この貴重な本をいただいたようでした。
杉江ぎんは「帯結び方百種」のあとがきでこう語っています。
「帯を仕立てる仕事について50余年になりました。
ふり返るとその間に大震災、戦争など様々なことがありました。
そして今、一本の帯を前にすると気も静まり、
帯が話しかけてくるような気がします。
…帯に教えられるとでも申しましょうか、
ほんとうに帯が生きているような心持ちです。」
名古屋帯を創案した杉江ぎんの生涯は
つねに帯と共にあり、
また、杉江ぎん自身も一本の帯のように
まっすぐに芯をもち、生きぬいた人だったのではないかと思います。
● 次回は帯を仕立てるときに必要な道具についてのお話しです。
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