花邑の帯あそび

1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…

「源氏車文様」について

2013-04-17 | 文様について

presented by hanamura ginza


4 月も半ばを過ぎ、
気がつけば日が暮れるのも遅くなり、
木々の緑が、少しずつ増えてきました。
花冷えの寒い日もありますが、
晴れた日には少し汗ばむほどで、
爽やかな風が心地良く感じられます。

お出かけにちょうど良い季節ということもあるようですが、
銀座では、以前にもましてお着物姿の人々を多くみかけるようになりました。

最近では、銀座界隈のホテルでの宿泊も、
だいぶリーズナブルになったようで、
遠方から泊りがけでお越しになる方も増えているようです。
また、最近では改装された歌舞伎座を見に行かれる方も多く、
お店にも、その帰りのお客さまが多くいらっしゃいます。

今日は、その歌舞伎にも多く登場する文様のひとつ、
「源氏車文様」についてお話ししましょう。

源氏車文様とは、
平安時代の貴族たちの乗り物だった
御所車の車輪部分のみを意匠化したもので、
車輪文様ともよばれています。

車輪文様は、平安時代の頃より文様化され、
源氏物語の絵巻にこの文様があらわされていたため、
「源氏車文様」とよぶようにもなったようです。
また「源氏」という公家の苗字をつけることで、
高貴な文様という意味合いを含めたという説もあります。

この車輪文様は、平安時代の貴族で、
のちに武家の棟梁になった
藤原 秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫にあたる
佐藤氏や、榊原氏の家紋としても、用いられました。

当時の貴族たちは、御所車に豪華な装飾を施し、その美を競いました。
その中でも、伊勢神宮の神官を努めていた榊原氏が
奉献品を運ぶために用いた御所車はたいへんな美しさだったようです。
榊原氏はそれにあやかり家紋に「源氏車」を用いたということです。

また、佐藤氏は、藤原秀衡の命により、
源義経に随行し、忠節を尽くした佐藤継信と弟の忠信兄弟が有名です。
継信は、壇ノ浦の戦いで義経の身代わりとなり討ち死にしたといわれ、
鎌倉時代に編纂された「吾妻鏡(あづまかがみ)」では、
義経が継信の死をたいへん嘆き悲しみ、
その亡骸を千株松の根元に葬ったと記されています。

歌舞伎演目の「義経千本桜」で登場する佐藤継信、忠信の衣装には、
源氏車文様が多く用いられています。

この佐藤継信の子孫と称する佐藤氏が東北に広まり、
その佐藤氏が使用した車紋がその地域を中心に広められたようで、
江戸時代のころには、車輪を家紋とした旗本は 30 家を越えていたようです。



上の写真は、ざっくりとした風合いの紬地に、
源氏車の文様が型染めであらわされた名古屋帯です。
シンプルな意匠ですが、
リズミカルに配された源氏車の文様には、
くるくると回っているような動きが感じられます。

上の名古屋帯の文様のようなシンプルな源氏車文様のほかにも、
草花や流水と組み合わせた豪華な源氏車の文様もあります。

そのほかにも、流水の中に浸され、片輪のみをあらわした
「片輪車文様」と呼ばれる文様もあります。
この文様は、木でできた車輪が乾燥してひび割れないように
車輪のみを川に浸した平安時代の風雅な情景をあらわしたものです。

くるくると回る車輪をあらわした源氏車文様は、
過ぎ行く時をあらわしたものとも、
輪廻転生をあらわすものともいわれています。
一見するとシンプルで単純な文様にも見えますが、
そうした日本ならではの死生観や
貴族文化ならではのロマンが込められているからこそ、
今日まで、人気のある文様なのでしょう。


上の写真の「土器(かわらけ)色 源氏車文様 型染め 名古屋帯」は花邑 銀座店でご紹介している商品です。

●花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 4 月 30 日(火)予定です。
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「貝文様」について

2013-04-03 | 文様について

presented by hanamura ginza


お彼岸を過ぎてからも、
東京では花冷えのする寒い日がつづいています。
満開となった桜の花も、昨日の風雨でだいぶ散ってしまいました。

桜景色が見られなくなったのは寂しいことですが、
その桜とバトンタッチするように、
花水木や山吹の蕾が少しずつ大きくなっています。
こうした彩り豊かな花々が咲く季節は、
お出かけするのも、楽しいものですね。

また、外出先でこの時期ならではの味覚を楽しむのも、
季節を感じる贅沢といえるでしょう。

この季節には多くの魚介類が産卵期を迎え、栄養を豊富にとるため
脂ののったものが多く水揚げされます。
サワラやニシン、サクラダイ、サクラエビ、カツオやホタルイカ、
貝類などの魚介類の多くはいまが旬となります。
今日は、そんなわけで貝の文様についてお話ししましょう。

貝は、世界中で食されてきた魚介類のひとつで、
その数は 108000 種にもなります。
世界のなかでも有数の産地として知られる日本には、
7000 種ほどが棲息しているそうです。

そのため貝は、日本の文化との深い関わりを
古くからもってきました。

日本全国で発掘されてきた縄文時代の遺跡からは、
多くの貝殻が出土されていて、
当時の人々が貝を貴重な食材としていたことが窺えます。
また、当時の人々は貝を貨幣としても用いたそうです。

一方、紀元前 1500 年ごろの中国では、
稀少だった子安貝を貨幣として用いていたということで、
当時作られた青銅器の内底には、
貝 10 枚と交換したということを意味する
「貝朋用」という文字が記されているものがあるようです。
漢字の財、貯、貨、費など、お金に関するものには、
「貝」が用いられていますね。

ちなみに、パプアニューギニアでは
最近まで貝を貨幣として用いていたようで、
稀少な貝3個で家が建つほどでした。

日本最大の巻貝とされるホラガイは楽器として用いられ
ホラガイを吹くと邪気が払えると考えられていました。
貝が生成する真珠も古くから飾り物に用いられ、
「日本書紀」や「古事記」「万葉集」においてすでにその記述がみられます。

奈良時代には、貝殻を原料とした螺鈿の技術が中国から伝えられ、
多くの調度品や楽器などに施されるようになりました。
螺鈿の技術は、平安時代になるとより高度になり、
安土桃山時代には、海外への輸出品としても盛んにつくられ、
西欧の上流階級で、人気を博しました。

平安時代には、ハマグリに絵を描いた「貝合わせ」という遊戯が
貴族たちの間で人気となりました。
この貝合わせも、もともとは採ってきた貝の美しさを競い合う遊びだったようで、
当時も美しい貝は、宝石のように貴重なものとして扱われていたようです。

意匠のモチーフとしては、
古くは縄文時代の土器にさまざまな貝殻の文様が見受けられます。
江戸時代には平安時代の貴族文化への憧れもあり、
雅な趣きのある吉祥文様として人気を博した「貝合わせ文様」、
その貝合わせの貝を入れた「貝桶文様」などが考案されました。
また江戸時代の小袖や能衣装には、
蛸や海藻などとともにあらわされた貝文様が見受けられます。



上の写真は大正~昭和初期頃につくられた絹布からお仕立て替えした名古屋帯です。
雲の間から覗く松林や海辺の景色が染めあらわされています。
楽しげに飛ぶ千鳥と、砂浜に配された貝の文様がかわいらしく、
海辺に吹くおだやかな南風が感じられます。

さて、この花冷えの寒さも今週中にはやわらぐということで、
来週には、上の意匠のような
おだやかな南風が吹くなかでのお散歩が楽しめそうです。

上の写真の「松林に千鳥と貝文様 型染め 名古屋帯 」は花邑 銀座店でご紹介している商品です。

●花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 4 月 17 日(水)予定です。
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