花邑の帯あそび

1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…

「水仙文様」について

2013-12-26 | 文様について

presented by hanamura ginza


クリスマスを過ぎ、
いよいよ今年も残すところわずかです。

冬至も越え、気温はぐんと低くなり、
北国では、雪が降り積もっている所も多くあるようです。

冬至は、1 年の中で一番日照時間が短い日になりますが、
この冬至を境にして、また日照時間が長くなっていくことから、
陰から陽にかわる「一陽来復(いちようらいふく)の日」とも考えられています。

現代では、クリスマスと冬至の時期が重なるため
ついつい忘れてしまいがちですが、
冬至の日には、南瓜を食べ、
柚子を湯船に浮かべるという慣習があります。

一説には、お日様の色を連想させる橙色の南瓜と黄色い柚子を身体に取り入れ、
陽の力を授かるという意味合いが込められているということです。

今日お話しする水仙は、
その力をいち早く授かるかのように、
ちょうど冬至のころに黄色や白色といったお日様の色をした花を咲かせます。

厳しい寒さの中でけなげに咲いている水仙をみかけると、
背筋が伸びる気持ちがしてきますね。

水仙は、その可憐な姿とは対照的に生命力が強く、
乾燥地や湿潤地など、さまざまな環境で育ちます。
彼岸花の一種で、球根で増えるため、
遠い昔から世界各地で自生し、
古代エジプトや古代ギリシャでは栽培もされていました。

水仙はギリシャ神話にも登場します。
美少年のナルシスが、池の水面に写る自分の姿に恋焦がれて死んでしまうというお話しがありますが、
そのナルシスが死んだあとに咲いた花が、水仙でした。
これは、少し下を向いて水辺に咲く花の姿が、
水面に写る自分を眺めるナルシスの面影をあらわしているためだとされています。

一方、古代の中国においては、
その姿が水辺に佇む思慮深い仙人に例えられ、
「水仙」という名前がつけられました。

その水仙が日本にもたられたのがいつ頃なのかは、
定かではありません。
西欧や中国のように水仙を愛でることは
長い間日本では行われていなかったようで、
平安時代や室町時代、戦国時代などの文献にも
水仙に対する記載が見当たらないようです。

その水仙が、一躍人気となったのは江戸時代のころです。

寒さの中で花を咲かせ、香りも良い水仙は、
「雪中花」ともよばれ、
詫び錆びの精神とも結びつき、
茶席では、茶花として盛んに水仙が用いられるようになりました。

また、当時人気を博した絵師の尾形光琳、尾形乾山の兄弟も
作品のモチーフに水仙を多用し、水仙ブームに一役買ったようです。

それまで注目されなかった分を取り戻そうとするように、
当時つくられた陶磁器や襖絵などの美術品にも
水仙は度々登場し、小袖の意匠にも用いられるようになりました。



上の写真は、大正~昭和初期ごろにつくられた絹縮緬からお仕立て替えした名古屋帯です。
まだ澄み切らない冬空の下で凛と咲いた
水仙の美しい佇まいがあらわされています。

水仙は開花時期も長く、
4 月ごろまで楽しめるのも、魅力のひとつですね。

また、西欧では水仙が希望をあらわすシンボルとして用いられることも多いようなので、
新年にふさわしい花ともいえるでしょう。


※上の写真の「水仙文様 型染め 名古屋帯 」は 2014 年 1 月 3 日に花邑 銀座店でご紹介予定の商品です。

●花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 1 月 10 日(木)予定です。
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「絵馬文様」について

2013-12-12 | 文様について

presented by hanamura ginza


大雪(たいせつ)を迎え、空気が一層ひんやりと冷たくなってきました。
日が暮れるのも早く、
師走という文字通りに
道行く人々も急ぎ足になっているように思えます。

明日の 12 月 13 日は、
江戸時代のころ「正月事始め」として
江戸城の煤(すす)払いを行う日と定められていました。
当時は庶民もこれに習い、同じように家の煤払いをしたようです。

煤払いは、本年の厄を払うとされ、
お正月に年神様を迎え入れるために欠かせない行事でした。
この煤払いがのちに大掃除となったようですが、
現代では、もっと年の瀬に行うのが一般的ですね。

それでも、社寺では江戸時代の頃のように、
この時期に煤払いをするところが多いようです。
社寺では、煤払いが終わると、
しめ縄や来年の干支が描かれた大絵馬などが飾られ、
お正月を迎える準備が早々に進められます。

この時期から社寺に飾られる大絵馬は、
たいへん大きなものですが、
通常は「絵馬」と聞くと、
手のひらサイズの木の板に
「学業成就」や「開運招福」などの
願い事の書かれているものが思い浮かびますね。
受験の際などに、合格祈願と書いた人も多いのではないでしょうか。

絵馬は、その名前のように、
来年の干支である「午(うま)」にとても縁が深いものです。
今回は、その絵馬の文様についてお話ししましょう。

馬は、現在でも競馬や乗馬などで
見る機会も多いため、
親しみやすい動物ですね。

機械技術が発達した現代では
日常生活の中で馬を必要とすることはありませんが、
古代の日本では、
農作業や移動のときなどに使われていました。

また、神の乗り物とも考えられ、
「神馬(しんめ)」と呼ばれ、
神社などには生きた馬が奉納されていました。

しかし、生きた馬を奉納することは、
奉納する側にとっては大切な助っ人を失うことになり、
奉納される神社にとっては、飼育がたいへんになってしまうということで、
負担が大きかったようです。

そのため、平安時代になると、
生きた馬の変わりに木や土で作られた馬の人形が作られて、
奉納されるようになっていきました。
さらに時代を経ると略式化され、
木板に馬の絵を描いたものが作られるようになり、
これがのちに絵馬とよばれるようになります。

室町時代には、絵馬には馬だけではなく、
武者絵や観音菩薩などのさまざまなモチーフが描かれるようになっていきます。

戦国時代には、武士たちが自らの力を誇示するために
絵馬の出来を競うようになりました。
当時活躍した狩野派や長谷川派などの絵師たちに絵を描かせ、
それらを展示する絵馬堂も建てられました。
当時の絵馬堂は、さまざまな絵師の作品が並び、
現代の美術館のようだったそうです。

やがて、江戸時代になると
現代のように庶民も小さな絵馬を作り、
そこに願いごとを書くようになりました。
干支が描かれたもの、駄洒落が描かかれたものなど、
さまざまな絵馬が作られたようです。

当時の絵馬は、現在でも各地の社寺にある絵馬堂などで眺めることができます。
絵馬に描かれた意匠の面白さはもちろんのこと、
昔の人々が絵馬に託した願いを読むのも面白く、
遠い昔の人々が身近に思えてきます。



上の写真は
昭和初期ごろにつくられた絹布からお仕立て替えした名古屋帯です。
十二支があらわされた絵馬が全体に散らされた小粋な意匠が目を引きます。
さらりと筆で描いたようなタッチであらわされた
動物たちの愛嬌のある表情は、
眺めているだけでも明るく楽しい気持ちになってきますね。

なにかと急がしい時期ですが、
縁起の良い絵馬を身にまとって、
年末年始を元気に過ごしたいですね。


上の写真の「絵馬に干支文様 型染め 名古屋帯 」は花邑 銀座店でご紹介中の商品です。

●花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 12 月 26 日(木)予定です。
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「猫文様」について

2013-12-04 | 文様について

presented by hanamura ginza


はやいもので、今年も残すところわずかになりました。

年の瀬に向けて、少しずつ寒さが増してきていますが、
その寒さを吹き飛ばすように、
街のあちこちではクリスマスのイルミネーションがきらきらと輝き、
道行く人々の目を楽しませています。

さて、ただいま花邑 銀座店では、
お出かけの多い年末年始に向けて、
かわいらしい生きものたちが
意匠のモチーフとなった帯を数多く集めた
「動物の帯展」を開催しています。
街のディスプレイの煌きにも負けないような、
魅力的な動物たちがあらわされた帯を多数取り揃えております。

今回は、その「動物の帯展」でご紹介している帯の意匠のなかから、
「猫」の文様についてお話ししましょう。

猫は、昔から人間の近くに住み、親しまれてきた動物です。
ペットとして家で飼われている方も多く、
猫好きが集うと「うちの猫が世界一」とばかりに、
話題がつきないものですね。

放し飼いされた猫や、野良猫を外でみる機会も多いですね。
見知らぬ土地を歩いているときに、
そこに住んでいる猫に会うと、
侵入者である自分の様子をうかがわれているような気持ちにもなります。

また、小春日和に日なたで猫がまるまって寝ている姿をみると、
とてものどかで牧歌的な光景に思えます。
眠っている猫といえば、
日光東照宮にある「眠り猫」の彫刻も有名ですね。
ちなみに、猫という言葉そのものは「寝子」からきたともいわれています。

猫と人間の関わりは遥か昔からあったようで、
人間の身近に住みはじめたのは、9500 年も前の頃のようです。

当初は、穀物を食べてしまう鼠を退治してくれる動物として
飼われていたようですが、
人間の遺体の近くに猫の遺体が埋められた遺跡も発掘されていて、
その当時から愛情をもって飼われていたことがうかがえます。

また、古代エジプトでは、
ライオンの変わりとして神様のように崇められ、
飼い猫が亡くなるとミイラにして神殿に葬られました。

日本において、猫が飼われはじめたのは、
奈良時代の頃とされています。
貴重な経典などの書物を鼠が食べないように、飼われるようになったそうです。

やがて、平安時代になると、貴族たちの間で
猫をペットとして飼うようになりました。

当時書かれた宇多天皇の日記には、
父親から譲られた黒猫を可愛がる様子が記され、
「枕草子」や「源氏物語」にも猫が端役として登場します。
その当時、猫はひもに繋がれて飼われていたようで、
源氏物語では、その様子があらわされています。



上の写真は
後ろ姿の猫が配された型染めの縮緬からお仕立て替えした名古屋帯です。
猫の特徴のひとつであるさまざまな毛紋様があらわされた意匠からは、
作り手の遊び心が伝わってきます。
一匹だけこちらを向いて微笑んでいる猫の表情もかわいらしいですね。


猫がこのような意匠のモチーフとなったのは、
江戸時代の頃です。

庶民にも猫を飼う習慣が広まり、
現代のように放し飼いされる猫が増えていきました。

当時人気を博した浮世絵師、歌川国芳は、
猫を擬人化してあらわしたものや、
猫で言葉をあらわしたものなど、
猫が登場する作品を多く残しました。

歌川国芳は、大の猫好きだったことでも有名ですが、
庶民の間でもこうした猫好きが増え、
小袖の意匠や、器の意匠などのモチーフとしても用いられました。

また、養蚕農家では蚕を食べてしまう鼠を退治してくれるとされ、
猫の絵がお守りとして飾られたようです。
このお守りがのちに「招き猫」となり、
商売繁盛の縁起物ともされました。

その一方で、猫には霊的な力があるとも考えられ、
当時つくられた怪談などには「化け猫」が多く登場しました。

また、どこかずる賢いようなイメージがあったようで、
「猫を被る」や「猫撫で声」などの悪いたとえに使われ、
遊興で働く女性のことを「猫」とも言ったようです。
そのためか、身近な動物だったわりには、
猫を意匠に取り入れたものは数が少なく、
比較的めずらしいともいえます。

それでも、そういったずる賢いような部分に人間味も感じられるようで、
夏目漱石の「我が輩は猫である」をはじめ、
俳句や文学には猫を擬人化して書いたものが多くあり、
頭が回るわりにはおっちょこちょいともいえる
愛すべき猫の様子があらわされています。

鼻先に飯粒つけて猫の恋  -小林一茶-


上の写真の「猫文様 型染め 名古屋帯 」は花邑 銀座店でご紹介中の商品です。

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