花邑の帯あそび
1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…
 





presented by hanamura ginza


まもなく 12 月ですね。
年の瀬まであとわずかということで、
年末の忙しさの中、ふと今年を振り返ることも多くなりました。

さて、年末年始には、お参りや初詣のために、
神社やお寺を訪れる機会が増えますね。
神社やお寺には、古来から続く日本ならではの慣習が
反映されたものが多くあり、
そういったものの由来を知ると、
日本の文化や歴史を再認識することができます。

新年を迎えるときなどに
願いごとを書く「絵馬」もそういったもののひとつで、
この絵馬の由来は、その名前のように
「馬」と深い関わりがあります。

馬は、古代の日本で神さまの乗り物と考えられ、
祈願のときには、神社に本物の馬が献上されていました。
しかし、当時の日本では馬がたいへん高価だったことと、
境内で馬を飼育することが困難だったことから、
本物の馬の変わりに馬を描いた絵を
奉納するようになったということです。

この絵馬の由来をはじめ、
馬は、日本だけではなく、世界中でも人類の歴史と深い関わりをもつ動物です。

今日はこの馬文様についてお話ししましょう。

馬は太古の昔から人間の近くに棲息していた動物で、
西洋では、35,000年前の旧石器時代の遺跡から、
馬の絵が描かれた壁画がみつかっています。

西洋では牛や羊などと同じように
食用として馬を飼育していましたが、
やがて食用ではなく、荷物などを載せた荷台を引くために、
馬を飼育するようになったようです。

馬に荷台を引かせる習慣は、
紀元前 3500 年前のメソポタミアで考案され、
エジプトを経て、ギリシャ、ローマに伝わり、
ヨーロッパ全域に広まりました。

また、騎馬の技術も発展し、
その技術力の高い民族が戦闘で勝利をおさめるといわれたほど、
戦場でも欠かせないものになりました。



上の写真の洒落袋帯は、
ギリシャ文明をモチーフにして絵柄が織り出されたものです。
鎧をつけた騎士と馬の取り合わせは、
古代のヨーロッパを象徴する絵柄として、
現在でもよく知られていますね。
木屋太製ならではの洗練された雰囲気が漂う
モダンな意匠となっています。

西洋では馬が古来より文様化され、
紀元前 400 年前につくられたペルシャ絨毯にも、
馬の絵柄が織りあらわされています。

また、中国では唐の時代にペルシャから伝えられ、
馬の文様を模倣した天馬文様があらわされました。
明の時代には、波の上を走る海馬文様などが
磁器にもあらわされるようになりました。

一方、日本に馬が大陸からもたらされたのは、
4 世紀末から 5 世紀の初頭です。
同時に騎馬の技術も伝えられたようで、
この時代の遺跡からは、馬の骨とともに、
騎馬のときに用いる馬具も出土されています。
また、この時代につくられた埴輪にも、
馬型のものが多く見られます。
飛鳥時代には、通信手段として馬が用いられ、
各地で馬が飼育されるようになりました。

平安時代になると、白馬が吉祥の動物とされ、
お正月に宮中で白馬を鑑賞する
「白馬節会(あおうまのせちえ)」が行われました。
また、馬を競い合わせる「競馬式(こまくらべ)」も
神事として行われていたようです。
この競馬式はやがて神事から娯楽へと変わり、
現代のように賭け事としての競馬も行われるようになりました。

当時、馬は金と並んで東国の産物とされ、
平家物語では、関東地方の武者が
騎馬に巧みであったことが記されています。

やがて、室町、鎌倉時代になると、
武士のしきたりのひとつに騎馬が取り入れられ、
軍事物資としても馬が貴重な存在となっていきました。

平安時代には娯楽にもなっていた競馬は、
武士のたしなみのひとつとされるようになり、
騎射(きしゃ)、流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおいもの)などの
行事が盛んに行われるようになりました。

ちなみに、この武士による競馬の伝統は江戸時代の中期までつづき、
江戸幕府は、江戸の高田に馬術の稽古場をつくりました。
この場所が現在のJR山手線の「高田馬場」になります。

安土桃山時代になると、当時の有名な絵師たちが競って絵馬をつくり、
それらの絵馬を飾る絵馬堂が建てられるようになりました。

江戸時代になると絵馬は庶民の間にも広まり、
さまざまな絵馬が作られるようになったそうです。

さて、このように日本の文化にも縁の深い馬ですが、
着物の意匠となったものは少なく、
陶器などに描かれる場合が多いようです。

その馬の文様の中に、「左馬(ひだりうま)」とよばれる馬の文様があります。
これは、左方向に走る馬の様子をあらわした「馬」という漢字に対し、
右方向に走る馬の様子をあらわした馬の絵図のことを指します。

この「左馬」の絵図は、
「馬」の裏返しということで、舞う(まう)という意味合いを込め、
福が舞い降りるという意味合いや、
「左うちわ」や「右にでるものなし」という意味合いがあり、
吉祥の文様として、将棋の駒や商売繁盛のお守りなど、
さまざまなものに用いられてきました。



上の写真の名古屋帯は、昭和初期頃につくられた
和更紗からお仕立て替えしたものです。
馬に乗る人物の顔が将棋の駒になっているという
たいへん珍しい意匠のものですが、
こちらも吉祥の動物とされた白馬が、
左馬となっています。

こちらはもともと、羽織の裏地に用いられていた和更紗布ですが、
絵馬に願い事を書くように縁起の良い意匠を身にまとい、
福を招いていたのでしょう。

※上の写真の「木屋太製 ギリシャ神話文 洒落袋帯」は花邑銀座店でご紹介している商品、「馬に駒文様 和更紗 名古屋帯」は 12 月 1 日(土)に花邑銀座店でご紹介予定の商品です。

花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 12 月 6 日(木)予定です。

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小雪を迎えて、朝晩の冷え込みが
一層厳しく感じられるようになってきました。
先日は東京でも木枯らし一番が吹き、
北国では、雪が降り積もった地域も多かったようです。

冬本番を控えて、その支度に忙しい日々ですが、
動物たちは、この時期から樹の穴や洞窟などにこもり、
冬眠をはじめているようです。

日本で冬眠をする動物は、ほ乳類全体の 3 分の 1 にあたり、
クマ類を除くと、みな小さな体型をしています。
これは、体が小さいと体表から逃げていく熱が多くなるため、
寒い冬にはその熱を蓄えるのが難しいことが要因のようです。

しかし、そのなかでも本州と四国に棲息するニホンリスは、
冬眠をしない動物として知られています。
ニホンリスは、冬になると冬用の暖かな毛に変わるため、
身体の熱が逃げていくのを防ぐことができるといわれています。

ニホンリスは、食料の少ない冬のために、秋から晩秋にかけ、
団栗や胡桃などの木の実を地中に埋めて、保存しています。
しかし、時々この埋めた場所を忘れてしまうこともあるようです。
埋めたリス本人にとっては困ったことですが、
春になってこの実から芽がでることも多く、
森の維持に役立ってもいるそうです。
リスらしいほのぼのとしたエピソードですね。

リスは、古来より親しまれてきた動物で、
調度品などの意匠のモチーフとしても好まれてきました。
今日はこの栗鼠(りす)文様についてお話ししましょう。

リスは、太古の昔から世界各地に棲息する動物で、
その種類は 254 種にものぼります。
そのうちのニホンリス、ムササビ、ニホンモモンガは日本固有のリスです。

小さくて、かわいらしい姿をもつリスは、
古来より人々に愛され、
古代ローマでは、ペットとして飼われていたこともありました。

一方、日本でもリスは古くからなじみ深い動物でしたが、
リスが意匠のモチーフとして用いられるようになったのは、
室町時代の頃です。
当時、中国からもたらされた葡萄栗鼠という
葡萄と栗鼠が一緒に配された絵柄が日本でも人気となり、
磁器や鎌倉彫などにあらわされるようになりました。

リスは、多産な鼠に似ていることから、
子孫繁栄を意味する縁起のよい文様とされ、
豊穣を意味する葡萄とともにあらわした葡萄栗鼠文様は、
西洋への輸出品としても人気が高かったようです。

江戸時代になると、
日本風の蒔絵のモチーフとしてもリスが用いられ、
その多くは尾を誇張してあらわされています。

また、彦根藩(滋賀県)には、
当時、異国からもたらされた古渡り更紗が多数残されていますが、
その中にも、リスの文様があらわされたものがあります。



上の写真の名古屋帯は、大正~昭和初期頃につくられた
和更紗からお仕立て替えしたものです。
唐草とリスの文様が連続的にあらわされた意匠は、
和更紗としては、とてもめずらしいものです。
抽象的なリスの絵柄からは、どこか愛嬌が感じられますね。

さて、意外なことに、琉球王朝のあった沖縄の首里城の内装にも、
この葡萄栗鼠文様が多くあらわされています。
沖縄には、リスは棲息していないのですが、
沖縄の工芸品は、着物の文様をはじめ、
日本文化の影響を感じさせるものが多く、
この葡萄栗鼠文様も、そういったことから
吉祥文様のひとつとして用いられたようです。

寒くなってくると、出かけるのがおっくうになりがちですが、
冬眠せずに雪の上をちょこちょこと走るニホンリスを見習って、
冬ならではの風情を楽しみに外へとお出かけしたいところですね。

※上の写真の「栗鼠(リス)唐草文様 和更紗 名古屋帯」は 12 月 1 日(土)から花邑銀座店で開催する「動物の帯展」でご紹介予定の商品です。

花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 11 月 29 日(木)予定です。

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立冬を迎え、いよいよ本格的な冬がやってきます。
寒さも急に厳しさを増したようで、
せかされるように、冬支度をはじめている方も多いことでしょう。
秋から冬へと季節が移り変わるためか、
時雨が降ることも増え、
傘を持ち歩く日も多くなりました。

さて、この傘を持ち歩くということは、
日本では習慣となっていますが、
ヨーロッパの人々がこの光景をみると、
とても不思議に思えるようです、
降水量が少なく、降っても霧雨の多いイギリスなどでは、
傘を持ち歩く習慣がないそうです。
そのため、ヨーロッパの人々は日本に来ると、
傘の種類が多いことにも驚くということです。

こういった話では、
日本と外国の文化の違いを垣間見ることができ、
面白いですね。

今日は、この「傘文様」についてお話ししましょう。

傘の歴史はたいへん古く、
紀元前 2000 年前のエジプトの遺跡では、
壁画に傘の絵図が描かれています。
しかしながら、その頃の傘は、
人々が雨などを除けるために作られたのではなく、
神さまや王たちの威光をあらわす道具として、作られていました。

その後、西欧では傘が日除けとして用いられることになりましたが、
当時の傘は永らく上流の貴婦人たちがもつ贅沢なもので、
富と権力の象徴でもあったようです。

一方、古代インドでも傘は吉祥道具のひとつとされ、
高僧や貴族などの限られた人々しか使用できない特別なものでした。
また、古代の中国でも同様に
傘は魔除けの道具として考えられていました。

日本に傘がもたらされたのは、古墳時代の頃です。
仏教の儀式に用いる道具として、中国から伝えられました。

日本でも、傘は高貴なものの象徴として考えられ、
一部の貴族たちにしか使用ができないものだったようです。

また、当時中国からもたらされた傘は、
「きぬがさ」(衣笠、絹傘)とよばれ、
布地が張ってあるものでしたが、
雨のときには使用することができず、
その用途は日除けに限られていました。

やがて、平安時代になると
和紙や竹細工の技術を応用した日本独自の傘が考案されました。

室町時代のころには、
和紙に油を塗ることで防水効果をもった傘が考案され、
現代のように、雨の日にも傘を用いることができるようになったようです。
また、この時代に傘をつくる傘張り職人も登場しました。

傘が意匠のモチーフとして用いられるようになったのも室町時代からで、
当時つくられた素襖(すおう)という男性用の装束には、
傘の文様があらわされています。

戦国時代には、
開閉可能な傘が登場し、
屋外で催される茶会の席では、
傘が風流な趣きを演出する道具として
椅子の脇に立てられました。

江戸時代の頃には、
庶民にも傘が普及し、
歌舞伎や舞踊の演出にも多用されました。
また、屋号を書いた宣伝用の傘もつくられていたようです。

傘の種類も、
「番傘(ばんかさ)」とよばれる柄の太い男性用のものや、
「蛇の目傘(じゃのめかさ)」という細身のもの、
舞台用の華やかなものまで作られるようになりました。

傘の普及とともに、傘張りの仕事も増え、
浪人が内職で傘張りをすることも多かったようです。
よく時代劇の中に、
士官の口がみつからない武士が
傘をつくる場面が登場しますね。
傘は江戸時代を象徴する道具でもあるのでしょう。

小袖や帯の意匠には、
こうした番傘や蛇の目傘が意匠化され、
粋な柄として人気になりました。

傘を差した絵図は、浮世絵でも多く見られます。
その中でも歌川広重の描いた
「東都名所 日本橋乃白雨」は有名ですね。



上の写真の名古屋帯は、
大正~昭和初期頃につくられた絹布からお仕立て替えしたものです。
歌舞伎の一場面をあらわしたもののようですが、
雪が積もる軒下や暖簾、
蛇の目傘がだいたんに配置された構図からは、
和の情緒と物語性が感じられます。

ちなみに、蛇の目傘の名前の由来は、
白い輪が入った絵柄が上から見たときに
蛇の目のようにみえるためのようですが、
日本では蛇が水神の遣いとされていたことも、
関係があるようです。

まだ少し早い話しですが、
来年の干支である「蛇」にちなんで
蛇の目傘の文様を身にまとうのも
お洒落でよろしいのではないでしょうか。

※上の写真の「傘に雪文様型染め 名古屋帯」は 11 月 9 日(金)に花邑銀座店でご紹介予定の商品です。

花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 11 月 22 日(木)予定です。

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今日から 11 月ですね。
日が暮れるのもすっかり早くなり、
朝晩の冷え込みも厳しくなってきています。

まもなく七五三ということで、
晴れやかな衣装を身にまとった
おすまし顔の子供の姿を見る機会も増えそうですね。

七五三のお着物の意匠には、
子供の健やかな成長を願った
鶴亀や松竹梅などの吉祥文様が多くみられます。

吉祥文様というと重厚感がありますが、
子供用のお着物では、そういった伝統文様が
かわいらしくアレンジされていたり、
鈴や手鞠の文様など
子供が親しみやすいモチーフを取り入れられたりなど、
大人の着物とは一味違った趣きがあり、
眺めているだけでも楽しいものです。

今日お話しする「糸巻き文様」も、
そのかたちのかわいらしさから
七五三のお着物で用いられることの多い文様のひとつです。

糸巻きは、糸を巻きつける道具として、
遠い昔から世界各地で用いられてきました。

日本でも、糸巻きの歴史は古く、
釣り糸や凧揚げの糸、楽器の糸など
使用する糸の用途によって、さまざまな種類の糸巻きが作られてきました。

その中でも、布を織る際に用いる
「苧環(おだまき)」とよばれる四角い枠状の糸巻きは、
とくに古来より人々の間で親しまれてきました。
和歌などでもその名をみることができます。

平安時代のはじめには、在原業平の書いた「伊勢物語」のなかに
「苧環のようにくるりとまわってよりを戻したいものだ」という
意味合いで用いられています。

また、鎌倉時代には、
源義経の愛妾だった静御膳が、
義経の敵となった源頼朝の前で、
「しづやしづ賤のをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな」

-静や、静やと、苧環のように何度も繰り返し、名前を呼んで頂いたあの時へ、
苧環がくるりくるりと廻るように、くるりと戻るすべは、もうないのでしょうか。-

と義経を想い、詠ったと伝えられています。

ちなみに、山野で春に咲く苧環(おだまき)とよばれる可憐な花は、
この糸巻きの苧環と形が似ていることから、
その名前がつけられました。

一方、古代の日本では、糸巻き全般を千切(ちきり)ともよんでいました。
千切は2つのものを結ぶという役目から、
人と人との仲を結んだり、愛を交わす「契り」にも
通じるということで、縁起が良いとされました。

そのため、糸巻きの文様は平安時代の頃より
吉祥の文様として用いられ、
江戸時代には津田一族の家紋にも用いられました。
その文様の種類も多く、
柄が付いていて凧揚げなどに用いられる枠糸巻き、
苧環、重ね糸巻き、陰重ね糸巻き、また丸の中に糸巻を描いた丸に三つ重ね糸巻き
などがあります。



江戸時代の頃には、長い糸に長寿や子孫繁栄の願いを込め、
お嫁に行くときに、糸巻き文様の着物や帯をもたせたようです。
また、当時の女性にとって織物は重要な仕事でもあり、
糸巻きは大切な道具でした。
そういったことから糸巻き文様には、
手仕事が上手にできるようにとの願いも込められていたようです。

上の写真は、色柄の異なるさまざまな苧環を配した型染めの絹縮緬です。
やさしい色使いは、糸巻きのかたちのかわいらしさを引き立て、
優美な雰囲気を醸しています。

※上の写真の「糸巻き尽くし文様 型染め 名古屋帯」 11 月 2 日(金)に花邑銀座店でご紹介予定の商品です。

花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 11 月 8 日(木)予定です。

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