花邑の帯あそび

1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…

「東海道」にまつわる文様-東海道五十三次-

2010-09-28 | 文様について

presented by hanamura


どんよりとした雲が空一面に広がり、
雨がしとしと降る肌寒い日が続いています。
この間までお日さまの熱い陽射しを
避けるようにして道を歩いていましたが、
いまでは、その強烈な陽射しさえ
恋しくなってきてしまいます。

すっきりと晴れた秋晴れの日が待ち遠しいですね。
秋晴れの青空を背景に、
樹木の葉が色づく景色は、
ほかの季節にはない趣きがあります。

ちょっぴりセンチメンタルな気分で
赤や黄色に染まった木の葉が舞い散るどこかの街道を
ひとり歩きしてみたくなるのも
この季節ならではの心象でしょう。

「街道」というと、なぜからしら古い響きが感じられますが、
それは、「街道」が遠くの街と街とを結ぶ道で、
旅(=ロマン)に付きものだからかもしれませんね

それでは、今回は、
この街道にまつわる文様についてお話しましょう。

日本ではじめて街道がつくられたのは、
統一国家が誕生した飛鳥時代です。
当時、都だった京では、
多くの人々や物資が行き来し、
そのなかでいたるところに道が作られ、
街道として整備されていきました。

奈良時代や平安時代になると、
各地で建てられる神社や寺院へとお参りへ行くための
街道がつくられるようになりました。

そして、こういった街道沿いには、
要所要所に宿場町がつくられました。

江戸時代になって参勤交代が行われるようになると、
江戸と各地を結ぶ街道の整備が進みました。
また、それまで公家や貴族達だけの楽しみだった旅行が、
庶民にも広まりブームにもなり、
街道はさらに発達していきました。

そうした街道のなかでも
「東海道」「中山道」「甲州街道」「奥州街道」「日光街道」の「五街道」は
とくに多くの人々が行き来し、
その宿場町も発展していきました。

その五街道のなかでももっとも有名な街道は、
やはり「東海道」でしょう。

江戸の日本橋から駿河を通って
京都の三条大橋へと至る東海道は、
江戸時代に活躍した浮世絵師、歌川広重の書いた
有名な「東海道五十三次」でもお馴染みですね。

東海道五十三次は、
東海道沿いに位置する53の宿場町と
出発点の日本橋と終着点の三条大橋を足した
合計55枚の絵図からなる連作です。



上の写真の和更紗は、
その歌川広重の東海道五十三次を題材に、
型染めされたもので、
浮世絵の風流な雰囲気が見事に再現されています。
モチーフになったのは、
東海道五十三次の中でも
大雪の降る静寂な宿場の様子を描いた
蒲原宿(静岡県)の図と、
にぎやかな宿場町を描いた大磯宿(神奈川県)で、
対照的な構図が印象的です。

ちなみに、東海道五十三次の大磯宿の図では、
雨の降る「虎が雨」とよばれるものが有名ですが、
こちらでは、晴れていて賑やかな大磯宿があらわされていて
何版か描かれた「東海道五十三次」のうちの一場面のようです。

さて、東海道の出発地点は日本橋、
終着地点は三条大橋ですが、
宿場町でいうと、最初の宿場町が江戸の品川、
最後の宿場町が京の大津になります。

その大津では、
江戸時代から大正時代に
「大津絵」とよばれた、
現代の風刺画のような民俗画が描かれて
人気を博していました。

男性ものの羽織裏や襦袢には
洒落た雰囲気で、たいへん凝った意匠のものが多いのですが、
その中でも大津絵のモチーフはたいへん人気があったようです。
ちなみに上の和更紗は
大正時代から昭和初期につくられたもので、
男物の羽織裏だったものです。

次回は、大津でつくられた「大津絵」についてお話ししましょう。

※写真は花邑銀座店でご紹介している帯の文様です。

花邑のブログ、「花邑の帯あそび」
次回の更新は10月5日(火)予定です。


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「蜘蛛の巣文様」について

2010-09-21 | 文様について

presented by hanamura


まもなく、秋分の日ですね。
ここ東京では、日中はまだ暑さが残っていますが、
朝晩はだいぶ涼しくなり、
日が暮れるのも早くなってきました。

今年は猛暑だったこともあり、
秋の訪れを感じるとほっとしてしまいますね。
しかし一方で、
生命力あふれる夏が終わった寂しさも感じます。

四季のある日本では、
昔から、秋は暑い季節から寒い季節へと向かう
時のうつろいを感じさせる季節でした。

そして、その時のうつろいが
侘び寂びを好む日本人独特の感性を
養ってきたのでしょう。

着物や帯はもちろん、
日本でつくられてきた美術品の意匠には、
侘び寂びをあらわしたものが多いのですが、
秋の風景はとくに好まれるようです。

ただいま、花邑銀座店でご紹介している
蜘蛛の巣文様の名古屋帯も、
そういった秋の侘び寂びの風情が
意匠化されているものです。



主(あるじ)の姿がみえず、
楓や銀杏などの落ち葉が絡まった
蜘蛛の巣の意匠はどこか寂しげで、
この季節ならではの風情が巧みに表現されています。
また、蜘蛛の巣のかたちの美しさも秀逸です。

蜘蛛の巣は、この意匠のように、
その形の面白さから着物や帯の意匠や陶磁器など
さまざまなもののモチーフとなってきました。

そこで、今回は
蜘蛛の巣の文様についてお話しましょう。

蜘蛛の巣は、よく軒下などでをみかけることが多く、
放射線状に見事につくられた
その網目の形の美しさに
思わず目をうばわれてしまうこともあります。

現代では、害虫というイメージもあるようですが、
昔の人々にとって蜘蛛の巣は
人間ではつくることができない神秘的なものに
感じられたのではないでしょうか。

蜘蛛の巣は、日本書紀や古今和歌集、平家物語にも登場し、
朝に蜘蛛の巣が下がると「待ち人がくる」とされ、
縁起の良いものとして扱われています。

また、文様としても「幸せをつかむ」
という吉祥文様として
着物や陶磁器などの美術品に用いられてきました。

愛知県の有松、鳴海地域で作られている
伝統工芸品の絞り染め、
「有松鳴海絞り」のなかにも、
「蜘蛛の巣絞り」とよばれる絞りの種類があります。

絞り染めした文様が蜘蛛の巣のように
放射線状になっているもので、
有松鳴海絞りを代表するものです。

蜘蛛の巣の文様が、
着物や帯のモチーフとして、もっとも人気だったのは、
明治~大正時代です。

当時流行したアール・ヌーヴォーの幾何学的な文様と、
蜘蛛の巣のかたちが重なったのかもしれません。
「良い男がかかる」という意味合いから、
とくに芸者達の間で人気がありました。

ちなみに現在、東京国立近代美術館では、
大正時代~昭和初期に活躍した上村松園展が開催されています。
この上村松園の傑作とされているもののひとつに、
大正7年に作られた「焔(ほのお)」
という題名の作品があります。
「焔」には蜘蛛の巣と藤の文様があらわされた着物を
身にまとっている女性が描かれています。

この作品の女性は『源氏物語』に登場する
葵の上の生き霊がモデルになっています。
蜘蛛の巣の文様は、
当時の流行を反映したものでもありますが、
女性の情念をあらわしたものとされています。

上村松園展は10月17日まで開催されているようなので、
ご興味のある方はぜひ行かれてみてはいかがでしょうか。

※写真は花邑銀座店でご紹介している帯の文様です。

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次回の更新は9月27日(火)予定です。


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「柘榴文様」について

2010-09-14 | 文様について

presented by hanamura


台風が過ぎて、ようやく涼しい風が吹くようになってきました。
大合唱をしていたセミの鳴き声も
そろそ終演も近いようで、まばらです。
夜には、こおろぎなど、秋の訪れを感じさせてくれる虫たちと
バトンタッチです。

デパートやスーパー、八百屋さんでは、
秋の味覚である果物や野菜、魚などが並んでいます。
食欲の秋の到来ですね。

着物や帯の意匠には、
秋から冬にかけて収穫される葡萄や梨、柿などの果物をモチーフにして
秋の豊かな実りをあらわしたものが多く見られます。

今日お話しする柘榴文様もまた、
そういった果物のひとつです。

柘榴は、夏の季節に大きな花を咲かせ、
秋から初冬にかけて大きな実をつけます。
厚い皮におおわれた赤紫色の柘榴の実の中には、
赤く小さなたくさんの果実が入っています。
そして、その果実のひとつひとつに、
とても小さな種子が入っています。

小さくて赤い柘榴の果実は、
まるで宝石のようにきれいで、
そのまま食べるのがもったいないぐらいです。

柘榴は、現在ではいたるところで見ることができ、
なじみ深い果物ですが、
もともとの原産地は、
日本より遥かに西方に位置する
トルコやイランなどの西アジアとされています。

原産地の西アジアでは
柘榴がたくさんの種子をつけることから、
豊穣や、子孫繁栄を意味する果物として、
文様化されてきました。
紀元前数世紀前のペルシャの遺跡では、
柘榴文様が配された美術品が多く発掘されています。

そして柘榴はシルクロードを通じて
中国へも伝えられました。
そして、中国でも子孫繁栄を意味する文様になりました。

中国から日本に柘榴が伝えられたのは平安時代の頃です。
日本では当初、
柘榴の果実は食用ではなく、
衣服を染める染料として栽培されていました。

やがて、西アジアや中国同様に、
安産や子孫繁栄の象徴となりました。
柘榴と切っても切れないのが鬼子母神でしょう。



はるか昔、インドに500人の子を持った鬼女がいました。
鬼女は人間の子どもを数多くとらえては自分の子に与えていました。
人々は悲嘆にくれて、お釈迦さまにすがります。
そこでお釈迦さまは、鬼女が留守の間に鬼女の500人の子のなかから、
鬼女がもっともかわいがっていた1人をお隠しになりました。
帰宅した鬼女は愛息の1人がいないことに気づきます。
鬼女は半狂乱になって方々を探しますが見つかるはずもありません。
鬼女はお釈迦さまに救いを求めます。

お釈迦さまは諭します。
「お前の500人の子のうちのたった1人がいなくなっても、
お前はそのように悲しむ。
まして少ない子の人間の母の嘆き悲しみはいかほどのものか」
鬼女に改悛の様子を見たお釈迦さまは
お隠しになっていた子を返します。
加えてお釈迦さまはおっしゃいました。
「また悪い心が起きたら、
そのときはこの柘榴の実を食べるが良い」
そういってたくさんの種子がついた柘榴の実を鬼女に手渡しました。

その後、改心した鬼女は、
鬼子母神として安産の象徴、子供の守り神となり、
人々に敬われるようになりました。

柘榴はこのように大昔から神聖な果実として
扱われてきたのです。

ちなみに、柘榴文様は
16世紀のヨーロッパでも人気を博しました。
ルネッサンス全盛期だったイタリアでは
貴族が着るドレスなどにも多く用いられたようで、
こちらでも高貴な果実として
扱われていたようです。

※写真は花邑銀座店でご紹介している帯の文様です。

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「唐草文様」について-その3-

2010-09-07 | 文様について

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残暑の厳しい暑い日が続いています。
今年もちゃんと秋はくるのかしらと、
心配になってしまいますね。

しかし先日、ふと空を眺めた、ら
透き通るような青空に鱗雲が浮かんでいました。
それでも季節はひそやかながら、
だんだん秋へと向かっているようです。

花邑では、9月1日から21日まで、
「更紗の帯展」を開催しています。
この厳しい残暑のなかでも
素敵な秋冬のコーディネイトが思い浮かぶような
秀逸な更紗の帯を取り揃え、
皆さまのご来店をお待ちしております。

今回は、前回に引き続き、
その更紗布に多く用いられている
「唐草文様」についてお話ししましょう。

「唐草文様」は、
古代エジプトで蓮をモチーフにした
「パルメット唐草」として誕生しました。
そして、かたちを少しずつ変えながら、
東方の国へと伝えられ、
やがて1世紀には中国にもたらされました。



1世紀は、中国に仏教がはじめて伝えられた時期でもあります。
そのため、中国にもたらされた唐草文様は、
はじめから仏教の装飾文様という意味合いが強かったようです。

それまで中国の文様には、
植物をモチーフにしたものは数が少なく、
龍や鳳凰、象などの動物文様が多かったようです。
装飾などに用いられる文様もこうした動物文様が主でした。

しかし、やがて南北朝時代になると、
シルクロードのオアシス都市だった
敦煌(とんこう)や北魏(ほくぎ)などの
仏教石窟などの装飾にも自然と唐草文様が
多用されるようになっていきました。

パルメット唐草は、
朝鮮半島においても、
同時期の三国時代に伝えられ、
仏教美術に取り入れられます。
そして、抽象的な花を唐草とともにあらわした宝相華文様といった
唐草文様を発展させた文様が誕生しました。

そして、ようやく日本にも飛鳥時代に入り
唐草文様が伝えられました。

日本に伝えられた唐草文様は、
はじめ中国のように
仏教文様としての意味合いが強いものでした。



しかし、やがて抽象的な草花や、
葡萄、鉄線、瓢箪などの蔓を持つ植物をモチーフにした
独自の唐草文様もつくられるようになります。
さらには、松や梅、菊などの
蔓をもたない植物の唐草文様もつくられました。

もともと、さまざまな文様を取り入れ、
独自の文様を考案するのが得意だった日本では、
唐草文様はアレンジのしやすい、
他のものとの相性も良い文様だったのでしょう。

無限の発展という願いが込められた唐草文様は、
日本においては、その文様の可能性も
まさしく無限に広まったのです。

※写真の名古屋帯はただいま「更紗の帯展」にてご紹介している和更紗です。

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