花邑の帯あそび

1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…

「烏帽子」について

2013-02-19 | 文様について

presented by hanamura ginza


2 月も半ばを過ぎ、
寒さの中にも、春の訪れを感じる日が増えてきました。
家の近くに咲いた梅の蕾もほころび、
晴れた日には木の上の鳥が高い鳴き声で相手を探しています。
すでに梅が満開となったところもあるようで、
各地では、梅祭りが催されています。

梅の花が咲けば、ひな祭りまであとわずかということで、
デパートなどでは、さまざまなひな人形が飾られています。
昨今では、飾るのも収納も簡単にできる
コンパクトなひな人形が人気のようで、
昔ながらの七段飾りのひな人形の横に、
フェルトでつくられたものや、
縮緬細工のものなどが並べられています。
お人形の顔も現代風に目が大きいものも多く、
なかには、リカちゃんやテディベアーのひな人形というのもあるようです。

素材や形は変わっても、
平安時代の公家の婚礼をあらわしたお人形ということに変わりはありません。
そのため、いずれの雛人形も十二単を着て扇を持ったお雛様に、
束帯衣装(そくたいいしょう) を着て勺(しゃく)を持ったお内裏様といった
平安時代の公家装束となっています。

さて、この装束で忘れてはいけないものに、冠(かんむり)があります。
ひな人形は、お雛様もお内裏様も冠をかぶっていますね。
平安時代の人々にとって、頭を隠すことは礼儀のひとつと考えられ、
儀式の際には必ず冠をかぶりました。

とくに公家の男性は礼装用の冠だけではなく、
日常的にも「烏帽子(えぼし)」とよばれた帽子をかぶり、
人前で烏帽子を脱ぐことはなかったようです。
烏帽子を外すのは、下着を脱ぐのと同じぐらい恥ずかしいこととされ、
寝るときでも烏帽子をかぶっていました。

時代劇などでも、この時代を再現するときには、
烏帽子をかぶった男性が登場しますね。
また、この時代に描かれた絵巻物に登場する男性も、
烏帽子をかぶっていることが多いですね。

冠や烏帽子のように頭にかぶる「帽子」は、
古来より人々に用いられてきたようで、
日本では古墳時代の遺跡から、
頭にかぶり物をしたに埴輪が発掘されています。

飛鳥時代のころには、貴族が礼装用に着用する冠が登場します。
また、中国からは「烏紗帽(うしゃぼう)」とよばれる被りものが伝来し、
日本ではこの烏紗帽がしだいに烏帽子として定着していきました。

奈良時代には、男子が12歳から16歳になると、
元服(げんぶく)という成人の儀式が行われました。
この元服では、神さまの前で、
総角(あげまき)と呼ばれる子供の髪型を改めて大人の髪を結い、
冠(烏帽子)をつけて大人になったことをあらわします。

「元服」という名前の「元」は首(頭)「服」は着用という意味合いがあり、
冠(烏帽子)が重要なアイテムになっています。

平安時代になると、烏帽子の素材は
絹や麻に漆を塗ったやわらかなものから、
紙製の硬いものなど、さまざまな種類がつくられるようになりました。
また、鎌倉時代には烏帽子の先を折り曲げて
コンパクトにしたものもつくられるようになり、
身分によって着用できる形も異なったようです。

しかし、次第に武士が権力を握るようになると、
烏帽子をかぶることが少なくなり、
戦国時代には、儀式の際の礼装にかぶられるのみとなっていったようです。



上の写真は
大正~昭和初期頃につくられた平織りの絹布からおしたて替えした名古屋帯です。
ジグザクの山並み文様に烏帽子という、
大胆でめずらしい意匠が目を引きます。
吉祥の松文様を配して、男子の健やかな成長を祈ったのでしょうか。
アンティークならではの落ち着いた色づかいが、
意匠に和の趣きを加え、現代でも洒落た雰囲気に感じられます。

さて、もう一度ひな人形に目を向けてみましょう。
冠を被ったお内裏様に、
烏帽子を被った左大臣と右大臣、
お囃子を奏でる五人囃子はまだ元服前なので総角(あげまき)、
一番下の仕丁(してい)とよばれる宮中の雑用係の三人は
なにもかぶってていません。
かぶりものを見るだけでも、
平安時代の文化を知ることができそうですね。

上の写真の「松に烏帽子(えぼし)と鍔(つば)文様 型染め 名古屋帯 」は花邑 銀座店でご紹介している商品です。

●花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 3 月 7 日(火)予定です。

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「文字の文様」について

2013-02-12 | 文様について

presented by hanamura ginza


立春を迎え、まもなく 2 月も半ばとなります。
まだまだ寒い日はつづいていますが、
梅のつぼみも大きくなり、
九州では、梅の花が満開となった地域もあるようです。
節分のときに外に撒いた豆は、
梅の木の上で春を待つ鳥たちの餌になったでしょうか。

禅寺では、立春の早朝になると「立春大吉」と書いた
紙札を入り口に貼る習慣があります。
縦書きに書くと左右対称となり、
表からみても裏からみても「立春大吉」と読めるということで、
縁起が良いとされているそうです。

「立春大吉」の紙札のように、
その言葉がもつ意味合いはもちろんのこと、
文字そのもののかたちや姿に目を向ける視線は、
日本ならではの文化が育てたものなのでしょう。

着物や調度品などの意匠には、
風景や意匠の中に文字をあらわしたものが多く見受けられます。
そこで今日は、文字の文様についてお話ししましょう。

日本では、飛鳥時代のころに中国から漢字が伝わり、
奈良時代には、漢字で日本語を表現する「万葉がな」が考案され、
平安時代の中頃には、漢字を崩して書いた「ひらがな」や
漢字の一部分を取った「カタカナ」が考案されました。

新しく考案された文字は、平安の貴族たちによって、
和歌や物語などに用いられ、さらに洗練されていきました。

その中で生まれたのが、「葦手絵(あしでえ)」と呼ばれるものです。
葦手絵とは、風景画の中に和歌や物語にちなんだ文字を書き入れたものです。
水辺の風景をあらわした絵の中で、
水辺に生える葦になぞらえて文字をあらわしたり、
流水や岩などの一部を文字にして
風景と一体になるようにあらわされています。
当時つくられた葦手絵の中には、
1 枚の絵の中にどれだけの文字が隠されているのか、
現在では判読できないものもあり、
当時の作者が、工夫を凝らして文字を絵に配していたことが分かります。

この葦手絵がもとになり、同じくだまし絵のように
和歌や物語の主題に登場する器物などを配した
「歌絵」とよばれるものも考案されました。

葦手絵の文様は、室町、鎌倉時代につくられた
蒔絵や能衣装などにも盛んに用いられました。

江戸時代には、言葉を絵にした「判じ絵」が、
人気を博すようになりました。
判じ絵のなかで有名なものに
七代目市川団十郎が好んだ「かまわぬ」があります。

「かまわぬ」は、「鎌」の絵に「輪」を書いて、
尻尾に「ぬ」という文字を書くことで、
「かまわぬ」と読ませます。

そのほかにも、ガマガエルがお茶をたてた絵図「茶釜」、
顔の頬に蝶がとまった絵図「包丁」、
「賀」という文字を背負った絵図「生姜」など、
当時、数え切れないほどの判じ絵が作られました。

また、文字そのものの形の面白さをあらわすために、
漢字やひらがなを散らし書きした意匠も、
多くつくられるようになりました。



上の写真は
昭和初期頃につくられた塩瀬の帯をお仕立て直ししたものです。
宮城県の伝統芸能として知られるすずめ踊りの絵図に詩が配されています。
すずめ踊りとは、1603年(慶長8年)に仙台城が落成したときに、
城の新築祝いの席で、石垣の石工たちが浮かれて踊ったとされる踊りで、
その姿が餌をついばむ雀に似ていることから、
この名前がつけられました。
(仙台城を築城した伊達政宗の家紋も竹に雀)

流れるようにあらわされた文字の文様と、
雀踊りの動作を巧みに捉えた絵図が相まり、
リズミカルな雰囲気があります。

文字そのものの形や、文字を絵にする「遊び」は、
日本のお家芸といってもいいかもしれませんね。(⌒∇⌒)
たとえば、この「顔文字」も文字(記号)と文字(記号)を組み合わせて
つくられた「文字遊び」の一種です。
現代では、こうした日本発の顔文字が、世界中で人気となっているようです。


上の写真の「縞に文字とすずめ踊り文様 型染め 名古屋帯 」は花邑 銀座店でご紹介している商品です。

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