花邑の帯あそび

1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…

「凧文様」について

2011-12-22 | 文様について

presented by hanamura ginza


いよいよ今年も残すところあとわずかになり、
忙しさのなかでも、ときたまこの一年を振り返っています。

今年のできごとを思い起こしてみると、
やはりどうしても暗い年だったように思い、
心が重くなってしまうときもあります。

実はこれまで、あえてこちらのブログでは一切震災について
取り上げてきませんでした。
それは事の重大さの前に、
どうしても心の整理がつかず、
その話題に触れることがためらわれたからです。
それでもなんとか前向きにという気持ちで
日々を過ごしてきました。

もちろん世間も同様で
今年は、「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」が
映画のサウンドトラックやCMのBGMに使われて人気が再燃し、
CDが製作されたり、ラジオのリクエストが激増したり、
元気付けられる音楽を求めていたようです。

「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」のいずれも
歌手・坂本九さんの曲です。
どちらも空を見上げる曲なのですが、
乗り越えがたい障害にぶつかったとき、
人はなんとかその苦難を克服しようと
大きな空にその心を映し、
再び歩みだそうとするのかもしれません。

空というと、この時期の空は澄み切って、
透明感のある青空がとてもきれいです。
その空を見上げると、やはり心も晴れやかになりますね。
新年には、ぜひとも曇りのない澄み渡った空が広がってほしいものです。

年明けの空というと、寒風のなか子どもたちが
凧揚げをしている情景が目に浮かびます。

空高く揚がった凧を見上げて、
はしゃいでいる子どもの姿に、
凧を引っ張りながら、
ちょっと得意げな父親の姿といった光景は、
とても微笑えましいものです。

しかし、中には風がないためか、
何回も落ちる凧を必死に空に揚げる父親に、
いまにもぐずりそうな子どもの姿といった
光景をみることもあります。
そういった光景に出会ったときには、
こちらも思わず凧が上がるようにと、応援したくなります。

近年ではこうした伝統的な遊びをしている子どもを
目にする機会も少なくなりましたが、
天高く凧が上がっているさまや、
一心にその凧を操っている子どもの表情を見ると
清々しい気持ちになるものです。

そこで今日は、空高く上げられる凧の文様について
お話ししましょう。

現在凧の種類は、さまざまにありますが、
竹の骨組みに和紙を張った「和凧」は、
風がないと上がりにくいとされ、
見かけることが少なくなってきました。

和凧よりも、ポリエステル製の「カイト」とよばれる凧のほうが
風が少なくても上がりやすく、人気があるようです。

飛行機や鳥のかたちをしたカイト凧も、
もちろん素敵ですが、
武者絵や寿の文字が描かれた和凧には、
やはり和の風情が強く感じられます。

また、この和凧に描かれた意匠には、
子どもが健やかに成長するようにとの願いや、
豊作祈願などの願いがこめられたものが多く、
新年にはたいへん縁起の良いものなのです。

着物や帯の意匠に、凧の文様が用いられるのは
比較的少ないのですが、
凧自体も、吉祥文様になります。

下の写真の名古屋帯は、
昭和初期ごろにつくられた和更紗からお仕立て替えしたものです。
纏(まとい)や笠、籠といった縁起物と一緒に
和凧と奴凧が意匠化されています。



凧の歴史は古く、
はじまりは紀元前 400 年前の古代ギリシャとされています。
この時代、凧は現代のように遊び道具ではなく、
戦の際に敵陣の距離を測る道具として使用されました。

日本には平安時代に中国からもたらされ、
豊作祈願の道具として用いられました。
また、凧を上げる人を紙鳶(しえん)、紙老鴟(しろうし)とよび、
凧揚げは技芸のひとつでもありました。

日本でも鎌倉時代から戦国時代には、
凧は戦の道具として使用されました。

ちなみに、現代のように「凧」という名前が各地に広まる前は、
関西では「いか」、長崎では「ハタ」と呼び、
その名前が異なっていました。

凧遊びが盛んになったのは、
江戸時代のころです。
技術が発達して、凧が大量につくれるようになると、
庶民たちにも凧が広まりました。

やがて、凧にさまざまな絵が描かれるようになり、
商店では、凧にお店の名前や家紋などを描いた
宣伝用の凧を上げるようになりました。
空に浮かぶ凧は、たいへん注目され、
宣伝にはうってつけだったのです。

さらに、ライバル店同士で相手の凧を落としあう
喧嘩凧も行われました。
この喧嘩凧で勝ち残ったお店の凧は、
長く空に浮かぶことができ、
お店のイメージアップにも繋がったようで、
各店では競って喧嘩凧に勝つような工夫をしたようです。

また、四角い凧のほかにも、
奴凧(やっこだこ)とよばれる凧もつくられ、人気を博しました。

奴凧の「奴」とは、江戸時代のころ、
武家の下僕として働いていた人々のことを指します。
参勤交代の際の臨時雇いで働いていた奴もいて、
奴が付ける家紋は、どの藩で働いても良いように、
正方形を4つに並べたものでした。
また、奴は鎌の形のようにはね上げた鎌ひげをつけていました。

奴凧は、この奴の姿に似せてつくられた凧で、
普段は身分が低く、弱い立場だった奴が、
空に上がり、武家を見下ろすことで、
日頃のうっぷんを晴らしていたとも言われています。

初春には、国立劇場にてこの奴凧が登場する
「奴凧廓春風(やっこだこさとのはるかぜ)」が公演されます。

「奴凧廓春風」は、江戸時代後期から明治時代に活躍した
歌舞伎狂言作者として有名な河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ)の絶筆です。

82年ぶりの公演となる
「奴凧廓春風(やっこだこさとのはるかぜ)」は
お正月の風物や情景を盛り込んだ洒脱な舞踊のようで、
まさに新年にふさわしい演目ですね。

さて、今年の「花邑の帯あそび」は今日でおしまいです。
今年度も、拙い文章にお付き合いくださり、
誠にありがとうございました。

風を真正面から受けとめて空高く上がる凧のごとく、
日本全体が本格的な復興に向けて
前向きになれる年であってほしいと祈るばかりです。

週末には寒さがより厳しくなるようです。
年末年始のだいじな時期にむけて
皆さまお身体の調子には十分ご留意くださいませ。

それでは、良いお年を。

花邑のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は2012年1月11日(水)予定です。

帯のアトリエ 花邑-hanamura- 銀座店ホームページへ 
   ↓


「市松文様」について

2011-12-14 | 文様について

presented by hanamura ginza


まもなく冬至。
日が暮れるのがすっかり早くなり、
気がつけば夜空に星が瞬いています。

日が射している時間が短いため、
朝晩の冷え込みも一層厳しく感じられますね。

年末年始の準備に加え、
この時期ならではのイベントも多く、
何かとお出かけする機会も多いことでしょう。
体調管理には気をつけたいところですね。

イベントといえば、
毎年、年末年始には特別企画の歌舞伎が多く公演されます。
初春には、テレビなどでも歌舞伎を放映するようで、
お家でも歌舞伎を楽しむこともありそうです。
歌舞伎の華やかな舞台は、
年末年始の気分を盛り上げ、
新しい年に向けての活力ともなりますね。

物語や役者の魅力はもちろんのこと、
凝った舞台演出など、
歌舞伎の見どころはさまざまですが、
江戸時代の頃には、役者が舞台で着用する装いが
最先端のファッションとして注目されていたそうです。
このあたりは現代でもいわゆる「セレブファッション」が
雑誌に取り上げられたり、流行の発端となったりすることを思えば、
今も昔も変わらないということになるのかもしれませんね。

歌舞伎の衣装に用いられたり、
歌舞伎役者本人が着用したことがきっかけとなって
流行した文様も数多くあり、
そのような文様には歌舞伎にちなんだ名前が付けられていることもあります。

今日は、その中のひとつ、
「市松文様」についてお話ししましょう。

市松文様とは四角い枡を碁盤の目のように並べ、
白黒などの色が交互になるように組み合わされた文様です。
シンプルながらインパクトのあるそのデザインは、
古来より世界中で用いられてきました。

その起源は定かではありませんが、
紀元前 5000 年前の古代メソポタミアや古代エジプトの遺跡では、
この文様が壁画などにあらわされ、残されています。

西洋では、オセロやチェスの盤も、
この市松文様になっていますね。

日本で見られるもっとも古い市松文様は、
正倉院に伝わる織物にあらわされたものです。

平安時代には、天皇や公家たちが着用する
正装の地紋として用いられ、
有職文様になりました。

桃山時代から江戸時代初期に中国からもたらされた織地には、
この市松文様が地紋に織りこまれたものが多く見られます。
このような地はのちに「名物裂」とよばれ、
江戸時代には茶人の小堀遠州が愛用したことから、
「遠州緞子」ともよばれています。

この頃までは市松文様を「霰文」や「石畳文」とよんでいました。
市松文様が今日のように
「市松」という名前でよばれるようになったのは、
江戸時代中頃です。

寛保元年、美貌の歌舞伎役者として人気のあった
佐野川市松が、小姓の役を演じる際、
舞台で身に着けた市松文様が評判となりました。

当時、庶民たちも文様があらわされた着物を楽しむようになったこともあり、
市松文様が’配された着物は、
佐野川市松に憧れる女性たちの間で大流行しました。
この頃から、「霰文」や「石畳文」は
佐野川市松の名前で「市松文」とよばれるようになったのです。

当時の庶民たちは、
憧れの歌舞伎役者が着用した文様を
自らも身にまとうことで、
役者を身近に感じ、日々の生活の心のよりどころとしていたのでしょう。
また、歌舞伎役者にとっても、
文様は自分の美意識を観客に伝えることができる
重要な手段だったのかもしれませんね。



上の写真の名古屋帯は、
市松文に梅と菊を配した小粋な意匠の型染めです。
市松文様には、このようにいろんなバリエーションがあります。

花邑 銀座店のブログ「花邑の帯あそび」も
本年は来週で最後です。
この一年はやはり暗い一年だったと言わざるをえませんが、
来年は市松文様の桝のお色目のごとく、
白黒交互が逆になって、
明るい一年となるように願うばかりです。

※上の写真の「市松文に梅と菊文様 型染め 名古屋帯」は12月16日(金)に花邑銀座店で
ご紹介予定の商品です。

花邑のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は12月21日(水)予定です。

帯のアトリエ 花邑-hanamura- 銀座店ホームページへ 
   ↓


「葦(あし、よし)文様」について

2011-12-07 | 文様について

presented by hanamura ginza


大寒を迎え、頬にあたる風が氷のように冷たく感じるようになりました。
年の瀬も近づき、季節もいよいよ真冬になります。

花邑銀座店では、厳しい寒さのなかでも、
顔が思わずほころぶような
動物をモチーフとした
「動物の帯展」を開催しています。

おかげさまでご好評いただき、
ひとつひとつ(1匹1匹)と
ご縁をいただき、お店から巣立っております。

動物の文様については、それぞれの商品ページ、
もしくはお店でご紹介させていただくとして、
今日は、こちらの帯の意匠のなかに配されている、
一部の文様についてお話しします。




上の写真の名古屋帯
は、
大正~昭和初期につくられた絹紬からお仕立て替えした名古屋帯です。
葦が生えている水辺に、雀が集った光景をあらわしたものです。

みなさん、いま「葦が生えている水辺」のところで、
「葦」を何と読まれましたか?
「あし」でしょうか?
「人間は考える葦(あし)」である」とは、
パスカルの言葉ですからね。
それでも「よし」と読まれた方も
なかにはいらっしゃるでしょう。

正解はどちらともいえないのですが、
国語的、生物学的にはやはり「あし」が正解です。
ただし、「よし」でも間違いではありません。
日本の文化では「よし」と読む場合も多くあるのです。
縁起を担ぐことの多い日本では
「あし」は「悪し」に通じることから、
「よし」(良し)と読みかえられているためです。

このあたりは、お酒の肴の「スルメイカ」を
「スル」は賭け事などで験が悪いことから、
「あたりめ」と言いかえているのと同様ですね。

今日はその葦の文様についてです。

葦は、水辺に生えるすらりとした背の高いイネ科の植物です。
葦が生えた水辺にはたくさんの鳥や魚が集まります。

それは、葦が生えているとそこに泥がたまり、
その泥の中に住む微生物を食べに、
さまざまな虫がやってくるからのようです。

その虫たちは鳥や魚にとっての
貴重な栄養源となります。
また、葦の茎は鳥や魚にとっての隠れ場ともなるのです。
葦が生える水辺は鳥や魚にとって、
憩いの場といったところでしょうか。

この葦は、世界中の水辺に生えていて、
人々とっても、遠い昔からなじみ深い植物のひとつです。

日本では、日本神話に葦でつくった船が登場し、
万葉集でも葦を題材にした詩が数多く詠まれています。

また、葦の茎は軽くて丈夫なことから、
さまざまなものの材料にも、用いられています。

奈良時代には、葦を用いた管楽器がつくられ、
平安時代には、葦の茎を矢、桃の木を弓にした、
葦矢(あしや)とよばれる弓がつくられました。
この葦矢は邪気を祓うとされ、
朝廷では大晦日の日になると、
葦矢を飛ばす儀式が行われていました。
この葦矢がもとになり、
現在でも初詣で配られる「破魔矢」に
葦の茎が用いられていることもあります。
また、葦簀(よしず)とよばれるすだれの材料や、
茅葺(かやぶき)民家の葺(ふ)き替えにも使用されています。

葦は平安時代の頃より文様化され、
お着物や調度品などの意匠に取り入られるようになりました。
とくに、水辺の風景をあらわしたものには、
葦と水鳥を組み合わせたものが多く見られます。
そのなかでも代表的なものは、
葦と雁を組み合わせた「葦雁(あしかり)文様」とよばれるもので、
秋の風情をあらわす意匠とされています。

そのほかにも、葦の茂みから見える小舟をあらわした
葦船 (あしふね)文様、
蛇籠と葦を組み合わせた蛇籠葦文様などがあります。

また、平安時代には葦手文(あしでもん)と呼ばれる
遊戯的な文様も考案されました。
葦手文とは、文字を葦の葉がたなびいているかのようにあらわしたもので、
葦に紛らせたこの絵文字を
水辺の風景のなかにだまし絵のように配しました。

かな文字が考案された当時、
人々は目新しいかな文字の美しさを
葦手絵としてあらわすことに熱中したようです。

この葦手絵がもとになり、同じくだまし絵のように
和歌や物語の主題に登場する器物などを配した
「歌絵」とよばれるものも考案されました。

葦手文は、室町、鎌倉時代につくられた
蒔絵などにも盛んに用いられました。

やがて江戸時代になり、
庶民も古典文学を楽しむようになると、
洒脱な意匠の葦手文や歌絵が多くつくられるようになりました。

念のためですが、
上の写真の帯の意匠の葦に
隠された文字などはありません。
葦は脇役に徹していて、
ふっくらとした雀がとても愛らしく描かれています。

葦の生える水辺には、
花のような華やかさはありませんが、
自然の恵みをもたらす葦の周囲には
さまざまな生き物が集い、
生命力の象徴となっているのです。

意匠のなかの雀は、おいしいごはんを
食べ終えたところなのでしょうか。
満足気におしゃべりをしているようにも思え、
楽しげな鳴き声までも聞こえてきそうですね。

上の写真の「流水に雀文様 型染め 名古屋帯」は花邑銀座店でご紹介している商品です。

花邑のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は11月14日(水)予定です。


帯のアトリエ 花邑-hanamura- 銀座店ホームページへ 
 ↓