オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

試みに合われた大祭司

2018-02-11 00:00:00 | 礼拝説教
2018年2月11日(日)主日礼拝(ヘブル4:14~5:10)岡田邦夫


「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」(ヘブル4:14)

 アメリカに行くのを渡米、外国から来た人を渡来人、渡ると書きます。海を渡るからです。イスラエル人の別名「ヘブル人」は「(ユーフラテス)川の向こうからきた者」を意味します。川を渡ってきた遊牧民ということです。きょうお話しするヘブル人への手紙のヘブル人はユダヤ人を読者に想定していると思われます。手紙の趣旨はユダヤ教に比べてキリスト教がはるかに優れているということです。
 「我、太平洋の橋とならん」は新渡戸稲造の使命でした。それにしても太平洋は広く、当時は船での渡米は遠かったです。その架け橋になるなどとは大胆な志でした。しかし、もっと、遥かに遠いのが天の神に対する地の人です。その架け橋となるのが「祭司」です。旧約聖書ではその祭司たちの代表が大祭司です。それに対して、イエス・キリストは完全な「大祭司」だとこの書は主張しているのです。

◇御子の接近
 御子イエス・キリストはいかに優れた方であるかを書き進めていきます。 まず、御子によって世界は造られたのであり、御子は神の本質の完全な現れであり、御子の言葉が万物を保っているのであり、御子は罪のきよめを成し遂げ、「すぐれて高いところの大能者の右の座に着かれ」たのです(ヘブル1:2-3)。
 天には御使いたちがいますが、御子は御使いより遥かにまさる方です(1:4)。御子は万物をしたがわせ、み使いにも仕えさせる方ですが、「み使いよりも、しばらくの間、低くされた」のです(2:9)。そして、御子イエスは私たちを救うために、死なれたのです。しかも死の苦しみをすべての人のために味あわれ、その苦しみを全うされたのです。神が多くの子たちを栄光に導くためでした。それゆえに、御子は栄光と誉れの冠をお受けになったのです(2:9-10要約)。そうして、「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と言うのですから、それはそれは圧倒的な恵みです(2:11)。天の神と地の人に架け橋ができたのです。
 重ねて告げます。「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(2:17-18)。
 私たちにこう命じます。「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」(3:1)。「考えなさい」は口語訳は「思いみるべきである」。原語の意味合いでは両方あるようです。このような「大祭司」のことを頭でしっかり考え、心で深く思いみることです。
 牧師や神父は聖餐の時にガウンを着ます。中には派手なものもあります。宗教的心理から、そうしているのかも知れませんが、このヘブル書から言えるのは福音書を読むとイエスは派手なことが一つもないのです。ユダヤ教の大祭司のような祭服も着ていないのです。ガウンは見せるものではなく、身を隠すものです。牧師の人間的な姿を隠し、大祭司を思いみるようにするためです。

◇聖徒の接近
大祭司、イエス・キリストのことを頭でしっかり考え、心で深く思いみるだけでなく、「近づこうではありませんか」と勧めます。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(4:15-16)。考えて、思いみて、素晴らしい恵みと分かるだけでなく、事実、今、なんのためらいもなく、自分のダメさ加減もわかっていながら、大胆に恵みの御座に近づけるとは何ともありがたい、嬉しい、安心できるものです。
それは大祭司ご自身が罪のために、ささげ物としていけにえになられたからですし。「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです」(5:1-2)。私のどんなことでも、何でもかんでも思いやってくださる。ああ、何という愛でしょうか。
まだ、あります。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです」(5:7-10)。メルキゼデクはアブラハムのところに出てくる祭司で、永遠の祭司という意味で使われています。
最も低い私たちに近づかれた大祭司は、最も高い神の右におられるのです。イエス・キリストが十字架につけられた時に隣の犯罪人が求めると「あなたはきょう、パラダイスにいます」と引き上げられました。大祭司は最も低いところから最も高い所までひきあげる架け橋になられたのです。
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(4:15-16)。