オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

ひとり子を惜しまない

2015-05-17 00:00:00 | 礼拝説教
2015年5月17日 主日礼拝(創世記22:9-14)岡田邦夫


 「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」創世記22:12

 先週、大川瀬の方から車で帰る途中のことでした。桜も山つつじも花が終わり、雑木林は新緑の一色に染まっていた。小雨がやんだが薄曇りで、草木はしっとりと濡れて、気持ちよさそうに見えた。すると右手の斜面に二本の茎が凛と立っていて、その先には真っ赤な二輪のばらの花が咲いていた。これ以上ないというくらいの鮮やかな赤である。「なんてきれいなのだろう」。今まで見た花の中で最も美しい花に出会ったと思えた。瞬間、私の胸はキュンのなった。私は創造者が見せてくれたその感動の一幅の絵を心のアルバムに保存した。
 話は全く違うのですが、きょうお話しする、アブラハムがイサクをモリヤの山で献げたところは私にとっては胸がキュンとなる話です。特にこの場面を題材にした絵画には、直視できないほどリアルに描かれた作品があります。

◇わからないことの辛さ
 神はアブラハムの名を呼んで、とても考えられないような過酷な命令をされます。愛してやまないひとり子のイサクを連れて、モリヤの山の上に行き、彼を全焼のいけにえとして神に献げよ、というものです(22:2)。アブラハムは相当思い悩んだでしょうが従います。翌朝、ろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れ、全焼のいけにえのためのたきぎを積み、出かけました。三日目、アブラハムが目を上げると、告げられた場所がはるかかなたに見えました。若い者たちにろばといっしょにここに残っているようにと指示をします。たきぎをイサクに負わせ、自分は火と刀とをもち、ふたりは進んで行きました。
 疑問をもったイサクは父に尋ねます。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」。アブラハムは苦悩の中からこう答えます。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」(22:8)。ついに、告げられた場所に着き、祭壇を築き、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、その上に置いたのです。動物のいけにえのように…。イサクも相当、葛藤があったでしょうが、父に従います。何と従順なのでしょうか。アブラハムも親として、息子をこの手で命を犠牲に献げるなど、とうてい出来ないことです。けれど、神には従わなければならない。心臓はもう破裂しそうだったでしょう。ついに「アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした」のです(22:10)。

 これまでは、なぜ、このようなことをしなければならないかがわからなかったのです。子孫が大いに祝福されるとの約束があり、子が生まれるはずのない夫婦から、全能の神の奇跡によって、イサクが生まれてきた。それなのに、神はそのひとり子をいけにえに献げよという。祝福すると言われているのにいけにえとせよとは全く理解できないことです。しかし、神は決して理不尽なことはさせない、よくわからないが何か神のみこころがあるのだろうと、神を信頼してここまできたのです。後で、これは「神の試練」であったことがわかるのです。聖書では冒頭(22:1)に記されていますが、彼にとっては後で悟ったのです。
 試練を訓練と見るなら、こうなのです。「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル12:11口語訳)。アブラハムにとっては実に喜ばしくない、むしろ悲しい訓練だったのでしょう。

◇わかることの幸い
 刀を取って、イサクに手をかけようとした時、神がストップをかけます。次のやりとりを見てみましょう(22:11)。「そのとき、主の使いが天から彼を呼び、『アブラハム。アブラハム。』と仰せられた。彼は答えた。『はい。ここにおります。』御使いは仰せられた。『あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』」。アブラハムは神を恐れる人かどうか、良い意味で試されたのですが、合格でした。事実は、イサクは殺されませんでした。他の宗教には信仰の極致として、人の命をいけにえにしていましたが、聖書では一貫して人身御供(ひとみごくう)を大罪として、禁じています。
 アブラハムがひとり子を惜しまないほど、神を恐れる者だと、今、よくわかったと評されたのです。これこそがアブラハムの信仰だと、新約のヤコブの手紙には記されています(2:21-23)。
 「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです」。旧約の時代でありながら、神の御子が十字架の祭壇に献げられる光景をアブラハムは先行的に見えたのでしょう(※)。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」をアブラハムは感じ取れたのでしょう(ローマ8:32、創世記22:16)。実行してみて、やってみて、わかったのです。
 この時、彼の思いを神がわかり、神の思いを彼がわかる、わかり合えたという、素晴らしい出来事が起こったのです。奇跡の中の奇跡です。神と彼は友になったのです。親友になったのです。実に美しい光景です。胸がキュンとなる話です。
私たちも、御子をさえ惜しまずに死に渡された方を知っています。私の側からも、神に対して、最も大切なものをお献げしましょう。それは物でしょうか、時間でしょうか、仕事とか、趣味とか、家族とかでしょうか、心の内に第一としているものを、惜しまず献げるのです。神第一の信仰に立つのです。神の惜しまない愛と私の惜しまない愛で結びつくのです。その経験(敬虔)こそ、残しておきたい一幅の絵となるでしょう。

神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだとイサクに言ったとおり、この時、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいたのです。これを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげました。その場所を、アドナイ・イルエ(主の山の上には備えがある)と名づけました。この「神の備えがある」から「摂理」という言葉が生まれました。イエス・キリストの神とこの私がわかり合える、胸がキュンとなる最高の交わりの時を主はあらかじめ用意してくださっているのです。