オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

イサク・父と息子の間で

2015-05-31 00:00:00 | 礼拝説教
2015年5月31日 主日礼拝(創世記:17-25)岡田邦夫


 「主はその夜、彼に現われて仰せられた。『わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。』」創世記25:24

 私たちの信仰の基礎を築いたのは、族長「アブラハム、イサク、ヤコブ」です。先週、説教の中でパスカルの回心を話しましたが、彼のメモの中には、アブラハム、イサク、ヤコブの神、イエス・キリストの神を信じるとも記されています。新約聖書でこう述べられています。「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」(マタイ22:32)。神がモーセに始めに現れ言われた言葉があって(出エジプト3:6)、それをイエス・キリストが引用されたのです。ところがアブラハムの神、ヤコブの神というのはよく出て来ますがイサクの神という言い方は出て来ません。では、イサクの存在意味は何なのでしょうか。考えてみたいと思います。

◇跡継ぎ
 イサクは生まれるはずがないのに、生まれてきた子です。サラの胎は閉ざされており、アブラハムとの間には子どもがいなかったのですが、全能の神が生まれて来ることを約束。神の奇跡によって祝福されて、アブラハム、百歳の時、生まれてきた子がイサクです。イサクが成長した時、アブラハムにその愛する子をモリヤの山で生け贄(にえ)として献げよとの命令を受けます。父はそのみ言葉に従います。それに抵抗したか、しなかったか、わかりませんが、イサクは生け贄のために祭壇の上に乗せられます。天使がストップをかけ、アブラハムという人が、真に神を怖れる者であることが確かめられました。この時、イサクについても、アブラハムにならい、命を賭けた信仰があったのだと想像しても、間違いはないでしょう。父に従うことが神に従うことだったと思います。
 聖書には面白い話が記されています。アブラハムはイサクにはカナンの娘ではなく、親戚の娘をめとらせようとしもべに命じます。生まれ故郷に行って、嫁さんを捜し、連れてきなさいと。十頭のらくだに貴重な品々を乗せ、持参します。ナホルの町に着き、しもべが祈っていると、井戸で一人の女性に出会います。尋ねてみるとアブラハムの親戚、ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘リベカだと言うのです。しもべが家に招かれ、一部始終を話すと、一同、これは主の導きと確信し、リベカをイサクに嫁がせることにします。リベカも了解し、イサクの元に行き、結婚に至ります。イサクはリベカを愛します。このほのぼのストーリーは67節という長さ、よほど重要な話なのでしょう。これもまた、父に従うことが神に従うことだったとし、父の信仰を受け継ぐのです。しかも、純粋な信仰の継承なのです。

◇中継ぎ
 飢饉の時に、アブラハムが妻を妹と偽って身の危険を回避しようとしたのと同じ事をイサクもしてしまいます。親子だからでしょうか。しかし、重要なことはイサクはアブラハムが聞いたみ声を聞いたことです。彼はそこからベエル・シェバに上った。主はその夜、彼に現われて仰せられた(26:23-24)。
 「わたしはあなたの父アブラハムの神である。
 恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。
 わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。
 わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
 彼ら夫婦にエサウとヤコブの双子が与えられ、イサクが世を去ろうとする時、だまされはしたものの、ヤコブの方に祝福を与えたのです。やり直すことはしませんでした。いわゆる一子相伝です。アブラハムはイシュマエルを退け、イサクに神の祝福を継承し、イサクはエサウを退け、ヤコブに神の祝福を継承しました。純粋な信仰を継承するためです。ヤコブは12人の子どもに祝福を継承します。
 野球のよくあるケースはピッチャーの継投で、先発、中継ぎ、押さえというのがあります。アブラハムが先発、ヤコブは押さえ。イサクは中継ぎです。注目されるのは先発と押さえで、中継ぎは少し影が薄いかもしれませんが、やはり、重要な役割です。イサクは正に信仰の継承の中継ぎをみごとに果たしたのです。しかも、正しく、生きた信仰を中継ぎしたのです。広く言えば、私たちも、先発の使徒たちの信仰を正しく、生きいきと継承し、次の人たちへの中継ぎをしていくのです。その役割は重要です。しっかりと中継ぎしていきましょう。祝福の継承者として。

◇本継ぎ
 イサクについては加えておきたいことがあります。旧約は「予型」があり、新約はその「本体」が現れたという解釈です。イサクがモリヤの山で、燔祭として献げられる時、彼は従順でした。それは予型でした。後に、父なる神の御手で、十字架上で犠牲とすることに対し、御子イエス・キリストは全く従順で、屠られました。モリヤの山の予型はゴルゴダの丘で本体として現れたのです。
 「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」。「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」(ピリピ2:6-9,12口語訳)。
 神への従順がいかに価値あるものか、ホテルやレストランでいう、三つ星とか五つ星なのです。

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