オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

曲がり角の向こうに

2014-09-28 00:00:00 | 礼拝説教
2014年9月28日 伝道礼拝(ピリピ2:15、16)岡田邦夫


 「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」
(ピリピ2:15、16)

 この辺りは黒豆の生育に適した風土です。今年は種まきの時が気候不順で芽が出ず、三度やり直しましたが、現在、順調に育っています。地主さんが良い実りを得るためには蒔き時で、6月20日頃がいいと常々言っておられます。わが家ではその10日前ぐらいに蛍を見に行き、その暗闇にひかる命の光を見て、やる気が与えられ、豆作りに向かいます。その蛍の見える場所は武庫川の「藍本曲がり」の近くです。名前のように川がUの字に曲がっているのです。川というのはだいたい曲がっています。
 聖書に「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。」とあります(伝道者の書7:13)。自然界を見ると直線というものはわずかで、ほとんどが曲線です。神は世界を曲線で造られたのだというのが私の勝手な解釈です。しかし、この聖書の文脈ですとそういう意味ではないようです(7:1ー3、8、10 、13、14)。
 「良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。…事の終わりは、その初めにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。…「どうして、昔のほうが今より良かったのか。」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。…神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」。
 人生の始めもあるが、終わりも来る、順境の日ばかりではない逆境の日もある、それは心が良くなるために、神が曲げられたのだ、ということです。これが社会の矛盾、人生の虚無を感じながら、創造者を信して生きることが人の本分だと解く知者の言葉です。「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」。

 ところが人が曲げたものがあります。新約聖書の重要な言葉で「ハマルティア」というのがあります。元々の意味は「的外れ」です。すぐ弓矢を想像するでしょう。そこから、良心を曲げて行動してしまう「罪」という意味に使われています。神にまっすぐ心が向いていなければならないのに、それを傲慢にも曲げてしまって、的外れな生き方をしている。それが人間です。ですから、人は軌道修正して神に向かう必要があります。心を改める改心では不十分、心を神に向ける180度の方向転換をするのです。自己中心から、神中心に心を回す意味の「回心」をするのです。そこにまことの救いがあるのです。
 ですから、人の世というのは曲がっているのです。人の罪が曲げているのです。情報量が多くなった今日、世界のニュースを知るたびに、世の中は実にねじ曲がっているとお感じでしょう。冒頭の聖書を見てみましょう。「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」(ピリピ2:15、16)。イエス・キリストは私たちの心をまっすぐにしてくださるのです。また、悪い曲がり方をした世にあって、まっすぐに生きるように導いてくださるのです。イエス・キリストは「わたしは道だ」と言っておられます。その道は神に通じるまっすぐな道、ハイウェイなのです。さっと神に向かうのです。通じるのです。形状記憶合金というのがあります。どんなに曲がっていても、熱をかけたりすると、最初の状態に戻ってしまうというものです。神の暖かい愛の御手の中に心を置くと、記憶されていた「神のかたち」、神にまっすぐ向かう心にもどるのです。

 最近のNHKのドラマで、クリスチャンが登場するものがありました。「八重の桜」の新島襄と八重、「軍師官兵衛」の黒田官兵衛、「花子とアン」の村井花子。時代が曲がり角に来たからでしょうか、こうした実在したクリスチャンの話が出てくるのは良いことと思います。この村岡花子が訳した「赤毛のアン」(モンゴメリ原作)は戦後の大変な時期に希望を与える本でした。そのなかで、心に響く言葉は38章にあり、「いま曲がり角にきたのよ。 曲がり角をまがったその先になにがあるかは、わからないの。でもいちばんきっとよいものにちがいないとおもうの」です。ストーリーや訳者のことは省略しますが、この言葉は希望の言葉です。
 この作品には聖書の言葉は出てきませんが、聖書が生活に受肉したものだと思います。「神は天に在り、この世はすべてよし」がそれを最もよく表現しています。人生においても、社会のおいても、曲がり角に来ることがあります。それが今かも知れません。その曲がり角というのが神が曲げられたものであるなら、必ず、先には良いものが待っているでしょう。その曲がり角が人が曲げたものでしても、イエス・キリストの元に行く時に、罪を赦し、神との関係をまっすぐにし、生き方をまっすぐにして下さいます。その二重重ねで、モンゴメリの言葉を受け止めましょう。そこにパウロの言葉のように、輝く者となるでしょう。
 「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」