オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

十字架につける、そしておろす

2014-09-14 00:00:00 | 礼拝説教
2014年9月14日 主日礼拝(マルコ福音書15:33-41)岡田邦夫

「三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」マルコ15:34

 「想像の翼を広げて」はNHK朝のドラマ「花子とアン」に出てくる台詞です。原作者の村岡恵理さん(孫にあたる)によると、花子さんは実際、アンのように好奇心旺盛で、いつも想像の翼を広げていたそうで、それは少女のころだけでなく、大人になってもかわらなかったようです。児童伝道に生涯をかけれたある牧師がノアの洪水の話をこう話し出すのです。「もくもくもくもく…」。もうそれだけで、空に上っていく雲を思い浮かべてしまいます。また、想像をたくましくしますと…と言って、短い聖書の出来事にふくらみをもたして下さいました。

◇助けられない物語
 エルサレムは祭りでにぎわっていたが、裏では暗雲が立ちこめていました。祭司長、律法学者等にとっては主イエスは邪魔な存在、抹殺してしまおうという思いをつのらせていたからです(14:1)。都合の良いことに、イエスの弟子・イスカリオテのユダが裏切って祭司長のところに来て、銀三十枚で売ったのです(14:10)。ここで、矢はイエスに放たれたのです。もはや、それをだれも止められない勢いとなってしまいました。夜陰に乗じて、当局の手下を引き連れて、ユダがイエスの前に現れ、挨拶のきすをする、それは捕まえる合図。たちまちイエスは捕えられ、弟子たちは多少の抵抗をするものの、師を捨てて逃げるしかありませんでした(14:44,50)。
 その真夜中には大祭司カヤパは議会を招集し、捕らえたイエスの裁判をするという早いスピードで事は進んでいきます。当局は偽証人を立てるものの、証言が一致しないので、有罪判決がくだせない。そこで議会はイエスが自分を神に近いものだと言ったとし、それは神への冒涜罪であり、死刑にしなければならないものだとしてしまいます(レビ24:16)。
 しかし、ユダヤはローマ帝国の属国、ユダヤ人には死刑にする権限がないので、夜が明けてから、総督ピラトのものとにイエスを引き渡します(15:1-)。ユダヤの当局はローマ政府に逆らう政治犯だと告訴します。それで、「あなたはユダヤ人の王ですか」。「そのとおりです」というやりとりになったのです。ピラトには祭司長等の妬みからの陰謀と見抜き、祭りの日の恩赦制度を使って切り抜けようとします。しかし、仕組まれた悪の流れは止められません。祭司長たちは群衆を扇動し、「バラバを釈放せよ」のシュプレヒコール。この男はどうするのかといえば、「十字架につけろ」のシュプレヒコール。ピラトは総督でありながら暴動を恐れて、バラバを釈放し、イエスをむち打たせ、十字架刑に処してしまいます。
 こうなると、刑を執行する兵士たちはいばらの冠をイエスにかぶせ、とことんあざけります。刑場に行くのに自分がかかる十字架を背負わすのですが、途中、クレネ人シモンに代わらせます。ゴルゴダ(されこうべ)の丘で二人の強盗といっしょに十字架にガツンと釘付けにされます。そして、ドスンと立ち上げます。さらし者にされたのです。こうなると、通りかかる者も祭司長、律法学者等も、となりの死刑囚も、一丸となってイエスをあざけり、ののしりまくるのでした。イエスは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫び、それから、イエスは大声をあげて息を引き取られました(15:34,37)。
 イエスの死体は議員の一人、アリマタヤのヨセフが引き取り、墓に納めました。ユダヤ当局は逮捕から20時間位の早さで、まんまと処分してしまった。想像を絶する激痛、底知れない乾き、魂を打ちのめすのろい、最も残忍な方法で、人々はよってたかって神の御子を抹殺してしまったのです。人はみな罪人、この人たちは人類の代表、私たち、罪人の心と手によって、御子イエス・キリストを裏切り、ののしり、苦しめ、抹殺してしまったのであります。実に残酷な物語です。しかし、これは福音書であり、福音の物語なのです。

◇助けていく物語
 主イエスは裏切り者のユダに悔い改めの機会を与えますが、それでも立ち返らない頑ななユダのことを嘆き悲しみます。逮捕される時に逃げた弟子たち、イエスの取り調べの時、大祭司の中庭で弟子の筆頭でありながら、イエスを三度も知らないと言ってしまったペテロ、裏切りに等しいにもかかわらず、主イエスはすべてを承知で赦しているのです。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)。すでにそう言って、愛をもって祈っておられたのです。また、ご自分の弟子たちは必ず、立ち直って使命をはたすのだと信頼されていたのです。
 逮捕の時、主イエスはこう言っておられました。「こうなったのは聖書のことばが実現するためです」(14:49)。その聖書とは人類をあがなうということであり、イザヤの預言が明白です。「イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。…あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし。…わたしの目には、あなたは高価で尊い』」(イザヤ43:1,3,4)。イエスの受難は残酷物語ではないのです。贖いの物語り、最高の愛の物語りなのです。そして、その贖いの物語はイザヤ書53章の預言のまるきりそのままの実現なのです。長いですが、読みましょう。
 「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」。
 神の中ではこの大いなる出来事が先にあって、神はその光景を画家が描くように、イザヤに描写させたのです。不思議なことに時間が逆なのです。それが預言なのです。
 主イエスは大祭司の前でも、総督ピラトの前でも、救い主、贖い主、キリストであることを宣言されたのです。それで十分なので何を問われても、沈黙されていたのです。すべては、止められない悪や妬みの流れではなく、私たちを救うところの、止められない愛と贖いの流れなのでした。人類が一丸となって、御子を抹殺したように見えますが、それ以上に、三位一体の神が一丸となって、人類の救いの業を成し遂げられたのです。醜い悲惨な物語ではなく、美しい栄光の物語なのです。この物語のクライマックスは「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」です(詩篇22:1の成就)。贖いが完全になされた叫びです。ですから、至聖所にいたる「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂け」、誰でもイエス・キリストを通して、神に近づける道が堂々と開かれたのです(15:38)。
 私たちは、私たちにとって、この十字架の福音物語がどれほど輝いているか、信仰の翼を広げてみようではありませんか。