オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

面倒だから、しよう

2014-06-22 00:00:00 | 礼拝説教
2014年6月22日 主日礼拝(ヨハネ福音書10:11-18)岡田邦夫


 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」ヨハネ福音書10:11

 豊中市民病院に鼻の手術のために入院していた時のことです。耳鼻科で生死に関わることではないので、6人部屋の人たち、親しく話しておりました。一人は豆腐屋さんで井戸からくみ上げた水で作っているので、格別においしいとか、朝早いのが難儀だとか話だしました。釣の話になると息を弾ませて語る。日曜になると、いつもより早く起きて、日本海まで行って、あんな魚、こんな魚を釣ったと話は止まらないのです。大好きだから、全然、面倒ではないのですね。
 母が私によくこんな川柳を言ってました。「不精者めんどくさいが先にたち」。私も好きなことは労をおしまないけれど、面倒なことは先送りにしてしまう人間であります。「面倒だから、しよう」はノートルダム清心学園理事長・渡辺和子シスターの著書の題名。私には耳の痛い言葉です。みなさんもこのような説教題での話は聞きたくないでしょう。しかし、この本はよりよく生きるための指針が綴られている良い本です。私はその奥にある「面倒という福音」を話したいのです。まずはこの本からの話です。序章として、「ほほえみ」という詩があり、第1章「ていねいに生きる」にはマザー・テレサの言葉が載せられています。「自分がしていることは、一滴の水のように小さなことかも知れないが、この一滴なしには大海はなりたたないのですよ」。「自分は、いわゆる偉大なことはできないが、小さなことの一つに、大きな愛をこめることはできます」。そして、消しゴムのかすの話が出てきます。
 シスターが大学で学期末テストの監督をしていた時のこと。書き終えたら退席して良いことになっていた。四年生の一人が立ち上がったのだが、思い直して、座り直し、ティッシュを取り出し、机の上の消しゴムのかすを集めティッシュに収め、教室を出て行った。「道徳教育の研究」のクラスで「面倒だからしよう」を合い言葉に教えていたのを実行したことだったのです。
 拝金主義がまかり通り、弱肉強食、格差社会が広がっている今日、「人はパンだけで生きるのではない」です。“よりよく”生き、“人間らしく”生き、心の充足感が必要。面倒なことは避け、自分中心に生きようとする傾向があります。しかし、「したくても、してはいけないことはしない。したくなくても、すべきことをする。自由の行使こそは、人間の主体性の発現にほかなりません」と著者は述べています。

◇面倒だから、できない
 とても大切な話です。しかし、したくても、してはいけないことはしない。したくなくても、すべきことをするというのは、徹底してしようとしたら、たいへんな戦いになります。「獅子身中の虫」と言いますが、百獣の王も体内に入り込む回虫にはかないません。外の敵ではなく、内の敵が大問題です。パウロという熱心な信仰者が悩みました。自分が良いことをしようとするができない、してはいけないことをやめようとするがしてしまう、私の内に住む罪がそうさせる。ほんとうに惨めな人間だ、この死のからだから誰が救ってくれるのだろう(ローマ7章)。それが現実。
 誰が救ってくれるのでしょうか。救い主、イエス・キリストです。まず、私たちの犯した罪を身代わりに背負い、神に裁かれ、信じる私たちを赦してくださいました。そればかりか、内にある罪を処理するためには死ぬ必要があります。罪深い自我はイエス・キリストと共に死に、新しい私にキリストと共によみがえったと信じるなら救われるのです。ただ単純に、素直に信じればいいのです。私たちはこの計り知れない神の恵みによってのみ救われるのです。この恵みの中にいる時に、誰もが「面倒だから、しよう」という気になるのです。もし、面倒でできないということがあったら、神に愛と恵みの中にもどってから、再チャレンジなのです。

◇面倒が、面倒でない
 しかし、考えてみてください。世界で、被造物の中で何が一番面倒かといえば、人間の自己中心の罪の問題です。それこそイエス・キリストはとてつもなく面倒でやっかいな私たち人間の罪を処理するために、神の位を捨てて、地上に来られ、人間と同じ様になり、同じ経験をされたのです。面倒な質問や苦情に答え、面倒な病気をいやし、死人を生き返らせ、面倒な空腹の群衆を満腹させ、面倒な嵐を静め、面倒な弟子たちを育て、救いに導きました。面倒な律法学者、パリサイ人、祭司長、ヘロデ王、総督ピラトの悪しきたくらみに耐えて、十字架の苦しみを受けました。十字架の苦しみの作業を「すべてが終わった」と言われるまで貫徹されたのです。この面倒と思われる救いのみ業は神のみこころでしたから、苦い杯もすすんで飲み干したのです。死んで葬られ、よみがえられた時にみ業は真に完成し、神の最高位、神の右にあげられたのです。ですから、私たちに難行苦行しなさいとか、パリサイ人のように律法の細かい規定を厳格に守るようにというような、極めて面倒なことをいっさい神は要求されません。ただ、悔い改めて福音を信じなさいと言われるだけです。

◇面倒でないのは愛
 牧師は畑を借りて野菜を育てています。農家の人は「お守りをする」と言います。天候や時季を見ての作業。相手にあわせないといけない。草引きといって、根から抜かないといけない。虫を捕ったり、モグラなどとの戦いがあり、倒れたら起こしたりと手間がかかります。そのように面倒を見てこそ、野菜は私たちの食卓に上ってくるのです。
 まして、迷いやすく、弱い羊である私たちを羊飼いであるイエス・キリストはどれほど面倒を見てくれるのでしょうか。とことんです。足のつま先から、頭のてっぺんまで、24時間365日、一生涯、御国に行くまでです。病める時も、健やかな時も、上り坂、下り坂、まさかの時も面倒を適切にされるのです。しかも、命をかけた面倒見の良さです。
 命あるものは子育てというのが何よりも、手がかかり、面倒です。ツバメがえさを取ってきては大きく開けた雛の口に入れてあげ、また、スイスイえさを取りに飛んでいっては帰ってきます。一日何回もくり返します。創造者のみ思いが表されている本能です。神は動物も人間も、子どもは可愛く造られているのです。だから、どんなに大変でも面倒を見られるのです。まして、父なる神にとって、神の子たちがなかなか罪深いやっかいなものであっても、可愛いから、御国に行くまで面倒を見てくださるのです。神が私のような者を「面倒だから、しよう」として手塩に掛けてくださっているのです。
 昔、神はエジプトの奴隷だったイスラエルという「ご自分の民を、羊の群れのように連れ出し、家畜の群れのように荒野の中を連れて行かれた。彼らを安らかに導かれたので、彼らは恐れなかった。彼らの敵は、海が包んでしまった」のです(詩篇78:52-53)。イエス・キリストは世界中のご自分の群れ、私たち羊の群れを命を犠牲にしてまで導かれることをご自分の口から言われました。
 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」(ヨハネ10:11ー 18)。