オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

命の泉は、これから流れ出る

2010-01-17 00:00:00 | 礼拝説教
2010年1月17日 主日礼拝(ヨハネ福音書4:1~42) 岡田邦夫


 「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ヨハネ福音書4:14

 はからずも、私、クリスマスにいただいたみ言葉のプレゼントは「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(箴言4:23)でした。新年になって、こころに響いています。「命の泉は、これから流れ出る」と。今日は命の泉のメッセージです。

◇真っ直ぐに行かれるイエス
 イエスはパリサイ人との衝突を避けて、ユダヤを去って、またガリラヤへ行こうとされた時のことです。普通、ユダヤ人であれば、サマリヤ人とはたいへん仲が悪く、まっすぐ行って、サマリヤを通ることをせず、ぐるっと遠回りして行っていたのですが、イエスはまっすぐにサマリヤに入って行かれました。サマリヤのスカルという町で、一人の女性と会います。それは「真っ直ぐな」出会いでした。

◇真っ直ぐに告げられるイエス
 イエスは旅の疲れで、ヤコブの井戸と呼ばれる井戸のかたわらに腰をおろしておられました。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていって、イエスお一人。第六時、正午ごろでした。そこにひとりのサマリヤの女性が水をくみに来ました。普通は朝夕の涼しい時に井戸に来るものです。何か、女性には事情がありそうです。主は「わたしに水を飲ませてください。」と頼みました。井戸は深いし、汲むものがなければ汲めないのですから、自然な言葉です。ところが、これが不自然なのです。同じイスラエル人なのですが、歴史的経緯があって、ユダヤ人はサマリヤ人をたいへん軽蔑していたからです。女性はそのままのことを聞きます。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」。
 このような民族間のゆがんだ思い、考えがあり、また、この真昼時に井戸に来なければならない事情の女性に対して、イエス・キリストは「真っ直ぐに」向き合われました。真っ直ぐに話をされます。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」(4:10)。生ける水のメッセージです。あとから、夫が五人あったが、今いっしょにいるのは夫ではないという問題の話より先にです。さらに続けます。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(4:13ー14)。そして、女性は救い主、メシアに出会ったのです。
 この水、エッチツーオーは飲んでもまた渇きます。この世のものは飲んでもまた渇きます。快楽は必要なものですが、飲んでもまた渇きます。この女性にかける人の優しい言葉もたいへんな慰めになるかも知れませんが、心底、魂の渇きをいやすことはできません。イエスは真っ直ぐに言われます。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」。

◇真っ直ぐに行こう私たち
 ヤコブの井戸ではなく、イエス・キリストの井戸から飲む水が渇くことのない水、永遠のいのちの水なのです。イエス・キリストの井戸はどこにあるのでしょうか。ゴルゴダにあるのです。十字架にかかり、ご自身の血を流し、私たちの罪の贖いをなしとげ、命を注ぎだしてくださいました。私たちは主を求め、主を信じて、そのきよい命の水に与るのです。その愛にあふれた命の水に与るのです。あなたは何か、いやなことがあって魂が渇いていませんか。十字架の井戸に真っ直ぐに行きましょう。あなたは特別なことも何もないのに魂が渇いていませんか。十字架の井戸に真っ直ぐに行きましょう。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」という泉が与えられるでしょう。

 実生活の中で、この井戸はどこにあるのでしょう。私たちが礼拝するところにあります。主は言われます。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(4:23ー24)。私たちは十字架において、主と出会います。また、礼拝において、主と出会います。しかも、霊とまことによって礼拝するところで主と出会います。主と出会うところに井戸があります。霊とまことによって礼拝するところに井戸があります。主は霊とまことをもって、真っ直ぐに私たちに向き合います。ですから、私たちも霊とまことをもって、真っ直ぐに主に向き合いましょう。そこに永遠の命の水がわき上がってきます。その水は神の恵みの味がし、神の愛の香りのする水でしょう。

 この井戸は終末のあとに現れる神の国にあります。黙示録にはその麗しい光景が預言されています。「御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」(黙示録7:17 )。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」(21:6-7)。それはほんとうに実現するビジョンです。救いはまったく成就しているので、それこそ、むなしく渇いた涙はなく、いのちの水の泉はあふれています。何と素晴らしいことでしょうか。私たちの思い、あこがれ、希望はそこにあります。信仰を真っ直ぐにそこに向けて生きていきましょう。