オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

風はその思いのままに吹き

2010-01-10 00:00:00 | 礼拝説教
2010年1月10日 主日礼拝(ヨハネ福音書3:1~16) 岡田邦夫


 「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ヨハネ福音書3:3

 ニコデモには面白い話があります。彼がある家を尋ねるとコーヒーが出され、家の人に聞かれました。「角砂糖、いくつ入れます?」。彼は答えました。「一個でも、二個でもいいです」。このジョークわかりましたか。別にわからなくてもいいことです。私、わかってもらえなくて困ったことがありました。若い時に、中学生の女の子に数学を教えていた時です。負の計算で、1、マイナス、カッコ、マイナス1、イコール?という問題です。1-(-1)=。カッコの中と外のマイナスどうしをかけるとプラスになるから、答は2。図を書いたりして、1時間、説明してもわからず、彼女の答は初めから最後まで“0”でした。私、家庭教師失格でした。それから、ずいぶん時がたちましたが、その人はそれからも、もしそれがわからなくても、何の支障もなく生きておられるだろうなと思います。人生、わからなくてもいいことは多くあります。

◇わからないことがわかった
 しかし、わからなくては困ることがあります。ユダヤの国会議員でパリサイ派のニコデモが、夜、イエスのもとに尋ねていきましたが、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」と言われてしまいました(3:10)。そこで、どうしても判ってほしいことがメッセージされます。二人の問答が面白いのですが、主が言おうとされたことは、次のようなことです。3節と5節、14~15節です。
 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」。
 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」。
 なぜなら、「まことに、まことに、あなたに告げます。」と前文があって、言われているからです。それは直訳ですが、意訳すると、新共同訳の「はっきり言っておく。」になります。はっきりしています。新しく生まれなければ神の国というのは見えてこなし、入ることもできないということです。聖書を学ぶ必要はありますが、それでわかるものではないのです。聖書を学んで、はっきりわかることは、新しく生まれなければ、わからないということです。
 私たちは1+1=2という感覚の世界に生きています。無限大に無限大を足しても、掛けても無限大だと数学者が言っても、私たちの生活感覚、命の感覚からはつかめないことです。神の国はこの世の命の感覚、肉の感覚ではつかめないのです。新しい命が与えられなければ、つかめない世界です。

◇わかないが、わかった
 しかし、聖霊によって、新しく生まれることができるのです。主は実に当を得た言い方をされます。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」(3:8)。聖霊の導きは感じられるが、聖霊様そのものを初めから終わりまで見極められないということでしょう。
 私はキリスト教に出会って、はじめはメッセージを聞いても何もわかりませんでした。それから、教会に行っても、聖書を読んでも、キリスト教の本を読んでも、わかりません。わからない、わからないが3年続きました。そして、一つの説教で「わかって信じようとしたら、一生わからないだろう。信じてわかるのだ。」と語られた時、私はこれだと思い、信じようと決心しました。聖霊の風を感じたのでしょう。悔い改めて、祈りました。わからない相手に向かって、「あなたを信じられませんが、信じさせてください。」と祈ったところ、イエス・キリストを信じられたのです。その時、確かに、新しく生まれた、新生したと思いました。すると、神の国の世界が、ぱーと開けて見えてきたように感じました。
 そのような新生の経験が劇的で、生まれ変わりの瞬間が明確な人もおられますが、小さい時から、教会に来ていると、それほど明確ではない方もおられます。しかし、生まれ変わったことは同じなのです。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」。聖霊の風が嵐のように感じられた人もいれば、そよ風に感じられた人もいるでしょう。でも、御霊によって生まれる者もみな同じなのです。

◇わかるべくして、わかった
 人の思いのままでは不確かですが、御霊の思いのまま導かれたのですから、これほど確かなものはありません。それは用意周到で、必ず成し遂げる思いであり、時にかない、配慮に満ちた思いだからです。そして、神の愛をわからせようとする思いだからです。
 このことは絶対にわからなければならないというのが、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」のメッセージです。
 かつて、イスラエルが荒野にいた時、神に逆らったために、主は怒って、蛇を送って、噛みつかせたので、多くに人が死にました。そこで、民はモーセの前で悔い改めて助けを求めますと、青銅の蛇を旗ざおの上につけました。それを仰ぎ見たものたちはいやされました。それは民数記21:4-9に記された出来事でした。そのように、イエス・キリストは天から降りてこられ、十字架にはりつけにされ、私たちの罪のために死んで下さり、新しい命、永遠の命を与えてくださいました。その命によって神の国に入れたのです。
 そして、私たちはそれがわかれば、すべてがわかったことに等しいほどの一節、福音が凝縮されているみ言葉が16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16新共同訳)。

 新生は風のように働く聖霊ですが、水と共に働いく聖霊によって、人は新しく生まれるのです。「水と御霊によって生まれる」とはそのことです。水は洗礼式(バプテスマ)です。バプテスマは聖霊が満ちている教会で行われる新生の業です。
 神の業は一度限りですべてですから、紀元33年頃、イエス・キリストが十字架にかかり死に、三日目に死人の中からよみがえってくださった時に、新しい命、永遠の命が私たちに与えられたのです。
 しかし、終末にのぞまれた聖霊は時を越えて、その新しい命、永遠の命を「今」の私たちに手渡してくださるのです。私たちの中でも、新しく生まれるのは一度限りです。それが「水と御霊によって生まれる」バプテスマです。神の業ですから、一度限りで、決定的で完全なものです。
 そして、私たちが新生したという信仰の確信は、バプテスマより前に、聖霊によって「先取り」として、経験することもあれば、バプテスマより後に「後取り」として、経験することもあれば、バプテスマの時に「中取り」として、経験することもあります。人それぞれです。また、聖霊による新生の経験は、信仰生涯の後において、再度経験する、追体験もあるでしょう。
 聖霊という風は愛においてその思いのままに吹き、私たちに永遠の命の躍動を吹き込んでくださるのです。感謝すべきは聖霊様!