2009年7月5日 主日礼拝(使徒の働き6:8~7:60)岡田邦夫
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」使徒の働き7:56
時々、教会で、その教会の牧師と、言葉の言い回しから、身の振る舞いまでよく似た青年がいて、つい微笑んでしまうことがあります。よほど、その青年、その牧師を尊敬しているのでしょう。尊敬する人との出会いというのは、その人の人生に大きく影響を与え、人生観まで変えさせることがあります。人生のモデルとして、ならいたいと思える人に出会えるなら、その人は幸いです。
◇古いモデルから新しいモデルへ
聖書(特に旧約聖書)において、人間の理想像というのは、祭司、預言者、知者です。祭司アロン、預言者エリヤ、知者ソロモンなどがあげられます。それをあわせもった者こそ最高の理想です。信仰者の人生のモデルです。初代教会において、モデルがいました。その一人がステパノです。
初代教会は財産を売ったりして、それを持ち寄り、共有して、生活していました。ところが配給のことで、もめる事態になりました(使徒の働き6章)。その時、使徒たちはこの問題処理に、七人の人を選出して、任せることにし、自分たちは使徒としての本来の仕事=祈りとみことばの奉仕に励むことにしました。御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち七人が選ばれ、その仕事にあたらせ、食卓の問題を解決したばかりか、それがかえって宣教の前進につながりました(6:5-6)。
その中のステパノという人は「恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。」のです。しかし、それが素晴らしい働きであれば、ある程、それをよしと思わない人たちがあらわれるものです。「解放された奴隷(リベルテン)の会堂」に属する一部のユダヤ人が、人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた。」と言わせて、無謀(むぼう)にも、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕え、議会にひっぱって行きました。そして、ひどいやり方をします。偽りの証人たちを立てて、こう言わせました。
「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう。』と彼が言うのを、私たちは聞きました」(6:13ー14)。ステパノも教会もそのような法に触れるようなことをしていません。しかし、その証言は霊的に言うなら、その通りなのです。主イエスは古いものをこわし、新しいものに変えてしまわれました。十字架、復活によってチェンジされたのです。古いモデルを新しいモデルに、フルチェンジされたのです。
◇理想のモデルから現実のモデルへ
大祭司がそのとおりかと尋問すると、ステパノは弁明を始めますが、それは証しであり、説教です。父祖アブラハムから始まり、聖書の歴史を述べます。その中で、モーセが、イスラエルの人々に、「神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟の中からお立てになる。」と言ったと言って(7:37)、モーセを越える方としてのイエスを証しします。
また、幕屋の建設から、ソロモンの神殿の建設を述べ、預言者の言葉から、「いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。」と証しします(7:48)。そして、鋭く指摘します。あなたがたは先祖たちと同様、聖霊に逆らっており、正しい方=イエスを裏切る者、殺す者となり、律法を守ってはいないではないかと…(7:51-54)。
これを聞いた人々は悔い改めるどころか、激怒して、大声で叫びながら、ステパノを町の外に連れ出し、よってたかって石を投げつけ、殺してしまいます(7:54-60)。
この証言から言えますことは、聖霊と知恵に満ちたステパノが、聖書に精通し、全体をよく把握していると共に、その中心的真理が何かを捕らえていと言うことです。その意味で彼は理想的な知者でした。
また、大胆に神の言葉を語り、絶えざる神の愛と恵みを明らかにし、それに対して、不信仰で罪深い人間を明らかにし、人の魂に迫りました。決して、人々の理不尽な扱い、リンチも恐れませんでした。その意味でステパノは預言者のようでした。
また、ステパノの最後はこうでした。「ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた」(7:60)。イエス・キリストと同じ言葉で、迫害する者のために祈り、とりなしをしたのです。その意味でステパノは真の祭司でした。
祭司、預言者、知者の生き方をした彼はキリスト者としての理想の生き方をしました。新約時代の素晴らしいモデルです。しかも、「議会で席に着いた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。」とありますし(6:15)、激怒する人々の前で、「聖霊に満たされたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』」とあります(7:55-56)。
聖霊がそうさせたのです。人は愛され、愛している時、輝いています。聖霊によって、イエスに愛され、イエスを愛して、彼は御使いのように輝いたのです。キリスト者もイエスに愛され、イエスを愛して、輝くのです。ステパノに続くキリスト者も聖霊に満たされて、イエスを見つめ、イエスに見つめられ、天は開かれるのです。
サウロという青年が着物の番をして、ステパノの殉教を見ていました(7:58)。そこで彼はキリスト教徒の迫害に走りますが、後に復活のキリストに出会って、回心し、キリスト教の宣教師になります。きっと、ひどい扱いをされながら、ステパノが栄光に輝いていた姿が目に焼き付いていたので、それが回心に導かれる導火線になったのだと思います。また、迫害されているキリスト者の多くがステパノのように輝いているの見たにに違いありません。この輝きは何だろうと求めた先にキリストとの出会いがあったのだと思います。
私も若い時、殉教していくキリスト者が死を恐れず、平安で、輝いている姿が不思議で、また、そのような人にあこがれる気持ちがありました。初めて、教会に行った時に、メッセージや祈りがかいもく分からなかったのですが、このような人たちの仲間に入れてほしいと思いました。そして、主に出会い、神の子にされ、仲間に加えられ、どんなに嬉しかったことか、昨日のように思い出します。
あなたが聖霊によって、イエスに愛され、イエスを愛して、輝いているなら、また、聖霊に満たされて、イエスを見つめ、イエスに見つめられ、天が開かれているなら、あなたもモデルとなり、証し人になるのです。
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」使徒の働き7:56
時々、教会で、その教会の牧師と、言葉の言い回しから、身の振る舞いまでよく似た青年がいて、つい微笑んでしまうことがあります。よほど、その青年、その牧師を尊敬しているのでしょう。尊敬する人との出会いというのは、その人の人生に大きく影響を与え、人生観まで変えさせることがあります。人生のモデルとして、ならいたいと思える人に出会えるなら、その人は幸いです。
◇古いモデルから新しいモデルへ
聖書(特に旧約聖書)において、人間の理想像というのは、祭司、預言者、知者です。祭司アロン、預言者エリヤ、知者ソロモンなどがあげられます。それをあわせもった者こそ最高の理想です。信仰者の人生のモデルです。初代教会において、モデルがいました。その一人がステパノです。
初代教会は財産を売ったりして、それを持ち寄り、共有して、生活していました。ところが配給のことで、もめる事態になりました(使徒の働き6章)。その時、使徒たちはこの問題処理に、七人の人を選出して、任せることにし、自分たちは使徒としての本来の仕事=祈りとみことばの奉仕に励むことにしました。御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち七人が選ばれ、その仕事にあたらせ、食卓の問題を解決したばかりか、それがかえって宣教の前進につながりました(6:5-6)。
その中のステパノという人は「恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。」のです。しかし、それが素晴らしい働きであれば、ある程、それをよしと思わない人たちがあらわれるものです。「解放された奴隷(リベルテン)の会堂」に属する一部のユダヤ人が、人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた。」と言わせて、無謀(むぼう)にも、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕え、議会にひっぱって行きました。そして、ひどいやり方をします。偽りの証人たちを立てて、こう言わせました。
「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう。』と彼が言うのを、私たちは聞きました」(6:13ー14)。ステパノも教会もそのような法に触れるようなことをしていません。しかし、その証言は霊的に言うなら、その通りなのです。主イエスは古いものをこわし、新しいものに変えてしまわれました。十字架、復活によってチェンジされたのです。古いモデルを新しいモデルに、フルチェンジされたのです。
◇理想のモデルから現実のモデルへ
大祭司がそのとおりかと尋問すると、ステパノは弁明を始めますが、それは証しであり、説教です。父祖アブラハムから始まり、聖書の歴史を述べます。その中で、モーセが、イスラエルの人々に、「神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟の中からお立てになる。」と言ったと言って(7:37)、モーセを越える方としてのイエスを証しします。
また、幕屋の建設から、ソロモンの神殿の建設を述べ、預言者の言葉から、「いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。」と証しします(7:48)。そして、鋭く指摘します。あなたがたは先祖たちと同様、聖霊に逆らっており、正しい方=イエスを裏切る者、殺す者となり、律法を守ってはいないではないかと…(7:51-54)。
これを聞いた人々は悔い改めるどころか、激怒して、大声で叫びながら、ステパノを町の外に連れ出し、よってたかって石を投げつけ、殺してしまいます(7:54-60)。
この証言から言えますことは、聖霊と知恵に満ちたステパノが、聖書に精通し、全体をよく把握していると共に、その中心的真理が何かを捕らえていと言うことです。その意味で彼は理想的な知者でした。
また、大胆に神の言葉を語り、絶えざる神の愛と恵みを明らかにし、それに対して、不信仰で罪深い人間を明らかにし、人の魂に迫りました。決して、人々の理不尽な扱い、リンチも恐れませんでした。その意味でステパノは預言者のようでした。
また、ステパノの最後はこうでした。「ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた」(7:60)。イエス・キリストと同じ言葉で、迫害する者のために祈り、とりなしをしたのです。その意味でステパノは真の祭司でした。
祭司、預言者、知者の生き方をした彼はキリスト者としての理想の生き方をしました。新約時代の素晴らしいモデルです。しかも、「議会で席に着いた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。」とありますし(6:15)、激怒する人々の前で、「聖霊に満たされたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』」とあります(7:55-56)。
聖霊がそうさせたのです。人は愛され、愛している時、輝いています。聖霊によって、イエスに愛され、イエスを愛して、彼は御使いのように輝いたのです。キリスト者もイエスに愛され、イエスを愛して、輝くのです。ステパノに続くキリスト者も聖霊に満たされて、イエスを見つめ、イエスに見つめられ、天は開かれるのです。
サウロという青年が着物の番をして、ステパノの殉教を見ていました(7:58)。そこで彼はキリスト教徒の迫害に走りますが、後に復活のキリストに出会って、回心し、キリスト教の宣教師になります。きっと、ひどい扱いをされながら、ステパノが栄光に輝いていた姿が目に焼き付いていたので、それが回心に導かれる導火線になったのだと思います。また、迫害されているキリスト者の多くがステパノのように輝いているの見たにに違いありません。この輝きは何だろうと求めた先にキリストとの出会いがあったのだと思います。
私も若い時、殉教していくキリスト者が死を恐れず、平安で、輝いている姿が不思議で、また、そのような人にあこがれる気持ちがありました。初めて、教会に行った時に、メッセージや祈りがかいもく分からなかったのですが、このような人たちの仲間に入れてほしいと思いました。そして、主に出会い、神の子にされ、仲間に加えられ、どんなに嬉しかったことか、昨日のように思い出します。
あなたが聖霊によって、イエスに愛され、イエスを愛して、輝いているなら、また、聖霊に満たされて、イエスを見つめ、イエスに見つめられ、天が開かれているなら、あなたもモデルとなり、証し人になるのです。