オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

神がきよいとされたから

2009-07-19 16:16:13 | 礼拝説教
2009年7月19日 主日礼拝(使徒の働き10:1~48)岡田邦夫


 「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」使徒の働き10:34-35

 「ユダヤ人だから」というだけで、ナチスドイツによるホロコーストが行われ、六百万人もの人々が虐殺されました。それでも、迫害に耐え、民族の団結を守れた理由の一つが、ユーモアでした。ユダヤのジョークにこのようなものがあります。痛烈なジョークでうっぷんを晴らしていたのでしょう。
 ナチスのヒトラー総督が山を散策中に過って川に落ちた。ところが、泳げない。「助けてくれ!助けてくれ!」と叫ぶと、森から現われた男が助けた。ずぶぬれなったヒトラーは「余は偉大なるドイツ民族の総統ヒトラーである。よく助けてくれた。礼を言うぞ。で、おまえの名は?」「イスラエル・コーエンです」「なに!ユダヤ人か。しかし、おまえが余の大嫌いなユダヤ人だとしても大変勇気のあるやつだ。願いを一つだけかなえてやろう」。すると、コーエンは「本当ですか。では、私の一番の望みを」「ん!何だ?」「ハイ、私があなたを救ったことは仲間には言わないでください」。

 ◇窓から見る恵みの景色
 ユダヤ人がヨーロッパにおいて、迫害されてきた理由は、彼らの独特な生活スタイルもありますが、キリスト教が公認された四世紀ごろから、ユダヤ人はキリストを十字架につけ、迫害した民族だからというのです。今日の目で見れば大変な偏見、差別です。人類の歴史というのは偏見と差別の歴史だといっても過言ではありません。
 そのユダヤ人自身も偏見の中に生きていました。旧約聖書にありますように、偶像礼拝、倫理的堕落につながるので、異教徒と交わるなという神の命令をゆがめてとり、異邦人とその生活をたいへん軽蔑するようになりました。イエスが選ばれた使徒たちは、そのような偏見からぬけられないユダヤ人でした。全世界に出て行って、福音を宣べ伝えよと命じられても、そんなに簡単ではありませんでした。彼ら自身の中にある偏見という壁はかなり厚い壁でした。
 私は窓から見る景色が好きです。小学生の時、窓際でミシンを踏む母の絵を描いて、それが入選しました。ここ相野で、私は朝起きて、三階の牧師室に上がり、東側の窓を開けると、田畑と山が見え、朝の空が見えます。良い景色です。窓を開けたまま、天の父よ…と祈り、わたしは全能の父である神を信じます…と告白し、心の窓を開きます。それはいいのですが、畑の野菜は、窓から眺めているだけではだめで、ドアを開けて出て行き、取ってこなければ、自分のものにはなりません。
 使徒ペテロは異邦人宣教という風景を窓から眺めてはいましたが、異邦人への偏見というドアが堅くて開けられない状態にいました。そこで神はみ使いを送り、幻を見させ、不思議な出来事をもって、その偏見という堅いドアを開けさせたのです。
 カイザリヤという港町、そこは俗に小ローマとよばれるような政治・軍事の重要都市で、ローマ総督の駐在地、そこにイタリア隊の百人隊長・コルネリオがおりました。「彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」のです(10:2)。ある日の午後三時ごろ、幻の中で、御使いが現れ、「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。さあ今、ヨッパに人をやって、シモンとう人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」と告げました(10:4ー6)。しもべ二人と敬虔な兵士一人をヨッパへ遣わしました。
 一方、もれも港町ヨッパでは、昼の十二時頃、使徒ペテロが祈りをするために屋上に上ったところ、空腹のせいか、うっとりと夢ごこちになっていました。すると、何と不思議な幻を見ました。天が開け大きな敷布のような入れ物が四隅をつるされて地上に降りて来ました。その中には、何と、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいたのです。そして、声が聞こえました。「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」
 ペテロはユダヤ人。これは死んでも出来ないことなのです。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」と言うしかないのです(10:14)。すると、きっぱりと告げられたのです。
 「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」(10:15)。
  これが三回もあったのですから、徹底しています。そして、その入れ物はすぐ天に引き上げられ、幻を通してのみ告げは終わりました。

 ◇外に出て見る神のみ業
 彼が幻について思い巡らしていると、御霊が彼にこう言われました。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです」(10:19-20)。そこで、降りていくと、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていたです。
 ペテロはヨッパの兄弟たち数人つれて、カイザリヤに着くと、コルネリオは親族、友人ら総出で迎えます。
 挨拶の後、ペテロが話し始めます。28 彼らにこう言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです」(10:28ー29)。コルネリオも自分が見た不思議で、また、リアルな幻のことを話します。何と、二人が見たという幻は決して独りよがりのものではなく、何とも絶妙に符合することでしょうか。
 そこでペテロは、口を開きます。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです」(10:34-35)。そして、イエス・キリストの福音を筋道立てて述べます。そして、最後に「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」と招きます(10:43)。みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになりました。異言を話し、神を賛美がわき上がりました。そして、ペテロは彼らにイエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるよう命じたのでした。
 これが異邦人宣教の門戸の開かれた瞬間でした。聖霊は私たち、人の内なる偏見という堅い門戸、ドアを幻という潤滑油で軽くし、開けさせるのです。ドアを開けて行ってみると、現実に伝道の実りが待っているのです。
 神はかたよったことをなさらないのです。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」のです(10:15)。あなたは自分自身をかたより見てはいませんか。過小評価したり、過大評価したりしていませんか。人の目はなかなか平等には見えません。聖霊によって、神のかたより見ない神の平等に気付きましょう。他者に対してもそうです。過小評価したり、過大評価したりしていませんか。聖霊によって、神のかたより見ない神の平等の視点で人を見ましょう。あなたの内なる偏見という堅いドアをみ言葉と聖霊という潤滑油で軽くしていただき、開けさせていただきましょう。そうすれば、外なる伝道の門が開かれていくでしょう。