オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

主こそ神であることを知れ

2017-09-03 00:00:00 | 礼拝説教
2017年9月3日 二か所礼拝(詩篇100:1~5)岡田邦夫

 「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」(詩篇100:3)

フィンランドの国歌は「われらの地」ですが、第二の国歌と呼ばれるものがあります。シベリウス作曲の「フィンランディア」です。ロシアから独立していく時に国民に勇気を与えた歌でした。先に18世紀ドイツ福音教会の修道士が作詞した詩があって、それをフィンランディアの曲をつけて賛美歌にしたものが、新聖歌303「安かれわが心よ」です。こちらは信仰の勇気を与える歌です。いずれにしても、歌は人々の心を一つにするものがあります。

◇歌え…主に…全ての地よ
 詩篇100篇は大胆にも「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。」と歌います。神学生の時に求道中の人を伝道集会に連れていく途中で、「私のお母さんは人というのは、神様を賛美するために造られたのよ」とよく言っていましたと話してくれました。その素朴な話、核心をついているなと、逆に教えられました。
 榎本保郎牧師が保育園の園長をされていた時のことです。ひとりの品の良い年配の女性が「こんな下品なことを教える園にはもう孫はやれません」と怒ってきました。「孫が私のことをクソババアと言うンですから」。園長はこう答えます。「お孫さんは賢い子です。新しい言葉を覚えたので、意味は良く分からいもののすぐ使ってみたかったのですね。悪い言葉とすぐ気付きますよ。なんでも興味をもっておられるようで、ますます賢くなりますよ」。女性は「良い園ですね。孫をよろしくお願いします」と言って帰って行ったとのことです。子供には言語能力が与えられていて、言葉を覚え、使うことで、喜びを感じるのです。飛躍しますが、人には神を賛美するように造られていますから、それが拙い言葉でも、カラスのような声でも、賛美すると魂が快いはずなのです。「あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された」とあるからです(マタイ21:16)。
 幼な心になって、ご一緒に神を賛美しましょう。
全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
 教会に来て、ご一緒に神を賛美しましょう。
感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。
主に感謝し、御名をほめたたえよ。

◇知れ…主を…全ての民よ
 実際にこの賛美はどういう時に歌われたのでしょうか。チェーンバイブルによると、「祝祭日の行列の賛美」と題がつけられています。そうだとすれば、私たちがよく目にする、祭りの行列と音楽のようなものが行われていたのでしょう。祭りといえば、そこにアイデンティティーや仲間(郷土)意識をもたされる時であり、同時に日常からの開放に浸る時でもありましょう。仲間と共に神を意識するのです(100:3a、5)。
「知れ。主こそ神」。
「主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る」。
 また、主にある「私たち」意識をもち、心を一つにするのです(100:3b)。
 「主が、私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」。
 神はヘブライ語では「エロヒーム」、一般名詞です。他の神々にも使います。短縮形エルは名前に入れられたりします。イスラ・エル=神と争うの意です。主はヘブライ語では「ヤーウェ」、固有名詞です。短縮形ヤは名前に入れら、エリヤ、イザヤ、エレミヤなど多く使われています。ところが、厄介というか、不思議というか、はたして、ヤーウェと発音するかどうかはわからない神秘です。聖書のヘブライ語の文字はほぼ、子音だけで書いてあり、読む時に母音をつけて読むものです。今は母音記号が付けられて印刷されています。十戒に「主のみ名をみだりに唱えてはならない」を徹底させ、英語風に記すとYHWHの語の部分をみだりに唱えないために、アドナイと置き換えて読ませていました。それが長い年月を経て、ついにどういう発音だったか、かいもくわからなくなってしまったのです。そこで、初めにギリシャ語に翻訳した時に主とか主人の意味のキュリオスと訳しましたので、その流れで、日本語も「主」と訳しています(エホバと訳したことがありましたが違っていたので今は訂正)。
モーセの召命の時に、お名前は何と言われますかと聞くと「我はありてあるもの」だと仰せになりました。「ヤーウェ」は絶対的存在というような意味でしょう。とにかく、「主」は固有名詞です。抽象的でなく、すべてを超越している存在ですが、具体的に創造と歴史にかかわり、私たちとかかわり、言葉を交わし、思いを通じ合わせることのできる、唯一無二のお方、神です。
賛美する時、主こそ神であることを知れ、です。さらに言うと「主イエスこそ神であることを知れ」です。そして、自分の存在を知るのです。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。それが信仰者のあるべき姿ですから、謙虚にそこに立ち返りましょう。そこに身をおき、心をおくと安らぎが来ます。良い羊飼いであるイエス・キリストは私たち、弱くて迷う羊を愛し、命を捨ててまで、救ってくださり、守っていてくださる。感謝が生まれ、希望が生まれ、使命も与えられます。
主日礼拝という祭りで、主にある兄弟姉妹が一緒に「主こそ神」と賛美する時に、主にある「私たち」意識、共同体意識が生まれるのです。そして、人と人、民族と民族、国と国が、私こそ主と言って争っていることが終わり、すべての者たちが一つになって、「主こそ神」と大合唱する御国が現れる、その時を祈り待ち望むのです。その時、本当に、「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。」と賛美が沸き上がるのです。だからこそ、信仰者は今から、この賛美を神と世界に向けて歌うのです。