オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

尖った正論より、温かい配慮

2017-09-24 00:00:00 | 礼拝説教
2017年9月24日 伝道礼拝(ヘブル13:1~7)岡田邦夫


主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」(ヘブル13:6)

 このタイトルはある著書にあったもので、後に紹介します。まず、誤解のないように言っておきます。「尖った正論より、温かい配慮」の反対の側面もあることはみなさんご存知のことと思います。芸術家やアスリート、技術者、学者など、その世界、そのことにおいて、尖ってないといけない場合があります。この秋、大阪で葛飾北斎展が開かれます。北斎、89歳で亡くなる、その最後の言葉が「天が私にあと十年の時を、いや五年の命を与えてくれるのなら、本当の絵描きになってみせるものを」。また、人が成長していくときに、尖る時がありますネ。そして、丸くなる時がありますネ。
 問題なのは押し付けてくる尖った正論です。必要なのはなにげない温かい配慮です。では、その著書を紹介しましょう。

◇人の有り様において
がん哲学外来の樋野興夫(ひのおきお)医師の著書“「今日」という日の花を摘む”にこんな文章があります。
“こんな私に、励ましのメールが届きました。「樋野先生は今年も寅(とら)さんですね。フーテンではありませんが、寅さんの独特の軽さ優しさ、他人への思いやりで全国を駆け回ってください」渥美清演じる「フーテンの寅さん」と生き方が似てるというなら、私は喜んで受け入れます。寅さんはメールの送り主さんが言うように、「偉大なるお節介」人間のモデルみたいな人ではないかと思っているからです。時には、「余計なお節介」に見える場合がありますが、相手はいつも寅さんに感謝して去っていきます。それは寅さんのお節介に私欲がなく、ひたすら相手のことを慮(おもんぱか)る姿勢で貫かれているからでしょう。自分がどうなるかは後回しにして、相手の悲しみや苦しみに黙って寄り添うのが寅さん流です。映画の中で寅さんは、こんなセリフで私たちに問いかけます。「ああ生まれてきてよかったと思うことが何べんかあるじゃない。そのために人間いきてんじゃねえのか」グッときますね。”
ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして、議論を吹っ掛けてきました。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」。イエスは問い返す。「律法には、何と書いてありますか…」。彼は正論を言う。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります」。イエスは突き詰めます。それは正論だ、その通り行えば命が得られる。彼は隣人とはだれかと議論に持ち込もうとする。そこで、イエスは良きサマリ人のたとえを話します。
ユダヤ人が強盗に身ぐるみとられ、半殺しにあった。祭司もレビ人も助けないで通り過ぎていったが、サマリヤ人は手当てをし、宿屋まで連れて行ったという話。イエス「強盗におそわれた人の隣人になったのは誰か」。律法の専門家「慈悲深い行いをした人だ」。イエス「あなたもそうせよ」。
これこそ、「尖った正論より、温かい配慮」の聖書のメッセージです。このごろの言葉でいうなら、配慮とは誰かに「寄り添う」ことです。著者は寄り添う心をこう言っています。「支えようと思うと心身ともに負担がかかる。しかし寄り添うのなら、相手も自分も静かな幸福感に満たされる」。

◇神の有り様において
 ここで寄り添って生きるまえに、寄り添われている幸いを知ることです。イエス・キリストが寄り添っておられるのです。「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。』」(ヘブル13:6)。
 ザアカイという取税人がいました。ユダヤ人から税金を集め、ローマ政府に収めるという仕事なので、同胞からは売国奴とののしられていました。金には困らないが、社会から疎外された寂しい、虚しい人生だった。そんなある日、イエスの一行がこの街を通るというので、行ってみたが背が低いものだから、人垣で見えない。どうしても、見たい!イチジク桑の木によじ登り、高みの見物。イエスがそばまで来た。イエスは見上げてこう言ったのです。「ザアカイよ、急いで降りて来なさい。きょうはあなたの家に泊まることにしてあるから」。急いで降りて来て、大喜びでイエスを迎えたのです。
 罪びとと烙印を押され、これまでつきあってくれることも、家に来てくれることもなかった。しかし救い主が来てくれたのです。救いがこの家に来たのです。この人もアブラハムの子なのだ、市民権がある。イエスにおいて罪ゆるされ、どうどうと神の民の一員だと言ってくれたのです。社会からは差別され、見捨てられた状態でしたが、主は「決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」とどんな状況下でも寄り添ってくださるのです。私たちがどんな状況にあって、自分がどんな状態でも、いついかなる時も、「決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」で寄り添ってくださるのです。
 ある中高生バイブルキャンプでN先生が説教の中でこう証しされていました。自分は陸上の選手で人一倍頑張っていた。しかし、結核と診断され、急きょ入院となった。これに命を懸けていたのにもう、かなわぬ夢となってしまった。そんな絶望の中で病室にいたある日、ラジオを聞いていた。すると、羽鳥明先生の「世の光」のメッセージが聞こえてきた。その救いのメッセージに感動して、ラジオを抱きしめていた。まさにラジオを通して救いがこの人に来たのです。それから、教会に行き受洗し、献身して牧師になられたのです。その時の先生のメッセージで、「決して」は強い言葉で「決して、決して」捨てないという意味だと強調されていました。陸上界からは見捨てられましたが、イエス・キリストは決して、決して見捨てはしないのです。先生は牧師、伝道者としてイエス・キリストが伴走者として寄り添い、走り続けておられるのです。
 主は決して正論で打ち負かそうとはされない。愛の配慮をもって助け手になってくださる。上り坂、下り坂、まさかの人生、主はどんな時も、決して、決してあなたを離れず、捨てないで寄り添われます。死の影の谷も行くとも寄り添って、天国に連れて行ってくれます。心の手足を取って…。
 主が最も私たちに寄り添われた姿はどこにありますか。十字架です。私たち、罪びとと寄り添われたのです。十字架において、罪のない方が罪びとの一人に数えられたのです。究極的に寄り添い、私たちの全部の罪を負われたのです。父なる神は罪を負った御子を見捨てました。裁かれたのです。しかし、その贖いを信じる者は救われ、御子は死人のうちより復活されたのです。捨てられて当然の私たちですが、主が身代わりに捨てられたので、信じる者たちを決して、決して、決して、見捨てないのです。大配慮です。