オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

実を結ぶには

2016-10-23 17:15:34 | 礼拝説教
2016年10月23日(日)みのお泉教会と三田泉教会の合同礼拝(ヨハネ福音書15:1~8)岡田邦夫

 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ヨハネ福音書15:5

 本日は三田泉教会でみのお泉教会と合同で礼拝が捧げられますことは感謝です。今から60年前、松井家の家庭集会で始まった群れが教会となり、最初の牧師が松村先生でした。二人とも松、最初の受洗者が竹田さん。これで、松と竹、あと梅がない。そういえば、近くに梅花学園があった。無理ムリなこじつけですが、とにかく、主にあっておめでたい出発でした。そうして蒔かれた種がこのように、合同礼拝が出来るほど、実が結ばれてきましたこと、感謝なことです。

◇つながっていれば…
 私が豊中泉教会に遣わされる前は四国の愛媛県の教会におりました。まだ、私も若かった。ある自己啓発の書に出会い、自分に当てはめ、我が人生20年計画という表を作りました。そんな時、先ほどの松村先生が四国の牧師研修会に来られましたので、その計画表を個人的に見てもらいました。勉強の欄は多いけれど、伝道の欄が少ないと指摘され、反省しました。その伝道プランは教会を株分けして増やしていくというものでした。1981年、豊中泉教会に遣わされて、そのプランは生かされました。自分の望むことが達成されていくのを「自己実現」といいます。
 しかし、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」はそれとは違います。神が神の方法で神の望まれることが成し遂げられていくという「み旨実現」を言っているのです。主イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と語りだしました。わざわざ「まことの」と言っておられるのですから…。

 赴任した時に祈っていると「ヨセフは実を結ぶ若木、その枝は垣根を越えるであろう」のみ言葉が牧師の中に来ました。目に見えた部分でも実を結び、垣根を越えて、今の群れになっていきました。重要なのは人のプランが結実したことではなく、それを越えて、与えられたみ言葉のようになっていく、み旨結実なのです。農夫である父なる神が手入れをなさるからです。
 ですから、私たちのすることは主イエスにつながること、とどまること、祈り求めることです。畑を貸していて下さる地主さんは「植えさえしておけば、何とかなる」というのが口癖です。そうです。私たち、イエスにつながってさえすれば、何とかなるのです。幹であるイエスから恵みの水と養分が枝である私たちに流れてきて、神の時が来れば、美味しいぶどうの実が豊かになるのです。枝だけ見ても見栄えはしないし、ひん曲がっている。そこに葉を茂らせ、実を成らせ、見栄えよくし、美味しくしてくださるのです。
 主イエスは植物にたとえられたので、一つだけ植物の素晴らしいところをお話ししましょう。水をどうやって吸い上げているのでしょう。ポンプもないのに10メートル以上ある木でもてっぺんまで水がいく。その秘密は「蒸散」、蒸発の蒸に散ると書きます。葉の裏に空気を出し入れする気孔、小さな穴がいっぱいあります。その気孔は根っこまで通じています。葉の裏の気孔から植物の水が蒸発するその力で、ストローで吸い上げるように根から水を吸い上げるのです。すごい力です。130~140メートルまで吸い上げられる計算になるというのです。
 みなさん、私たちには神の恵みを吸い上げる、祈りの力がなんぼでも与えられているのです。「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは…あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」。

◇つながっていると…
 その実とは何でしょう。第一に悔い改めの実、第二に御霊の実、第三に伝道の実だという説教を聞いたことがあります。しかし、別の視点で見てみましょう。今、読んだ聖句、一つあいだを飛ばしました。「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり」です。主イエスとつながっていて、結ばれる実は永遠に残るというのです。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのです。見えない実なのです。いつまでも存続するものは信仰と希望と愛、このうち最も大いなるものは愛です。
 主は愛を語ります。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです」。この「ように」「同じ」というのが最高に素晴らしい恵みです。イエスと私たちは師と弟子を越えて、友と友だというのです。主イエスは君たちを友として、友のために命を捨てたというのです。その友と友の愛は神の側での父子愛と同じような最高のものだというのです。何とまあ、すごいことでしょうか。だから、互いに愛し合うことは価値のあること、見えない形で残るのです。
 だから、ぶどうの枝である私たちは幹である主イエスから蒸散の吸収力で神の愛、十字架の愛、無限の愛をいただくのです。「君は愛されるため生まれた」という歌がはやりました。その歌詞にこうあります。「永遠の神の愛はわれらの出会いの中で実を結ぶ。きみの存在が私にはどれほど大きな喜びでしょう」。つながることは出会うことです。日々、主イエスさまとお出会いしましょう。天のお父様と、慰め主・聖霊さまとお出会いしましょう。そうしたら、見えない実が結ばれて、残っていくに違いありません。
 人生において見える実を残すのも良いでしょう。しかし、見えない実を主につながり、主に出会い、神にしか見えない実を残させていただく人生はどれほど天のお父様を喜ばせることでしょうか。そのためにあなたは選ばれたのです。