オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

憧れのよきサマリヤ人

2016-10-17 23:36:07 | 礼拝説教

2016年10月16日(日)(マタイ福音書4:23~24)岡田邦夫

「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。」マタイ福音書4:23 ~24

 時々、スポーツ選手が漫画の影響を受けたと聞きます。オリンピック三連覇をなしとげた野村忠宏さんは漫画「柔道部物語」の主人公の背負投に憧れていたといいます。「技の入り方など参考にした。主人公は初心者で柔道を始めたが、背負投を磨くことで強くなっていき、その姿に自分を重ねた。心の支えになった」と熱く語っておられました。人はそれぞれ、憧れる人がいることは大切なのでしょう。

 私にとって、憧れの人はジャングルの聖者といわれたシュヴァイツァーでした。彼は比較的裕福な牧師の家庭に生まれ、体は頑健でオルガン奏者でもあり、バッハ研究、神学、哲学においても優れた学者でした。しかし、30歳の時、医療と伝道に生きることを志し、医学を学び、アフリカの赤道直下のランバレネに行き、医療活動に生涯をささげました。しばしば、ヨーロッパに行っては講演会やパイプオルガン演奏会で資金を集めていました。学者であり、芸術家でありながら、アフリカの人のためにと献身された姿に憧れました。就職の際、履歴書の尊敬する人の欄に彼の名を書きました。彼のようなかけら一つもなっていませんが、憧れたことに意味があったと思います。私がキリスト教に引かれていく要因になったからです。

◇憧れの型・よきサマリヤ人
 シュヴァイツァーをそうさせたのはキリスト教の精神であり、それを端的に表しているのが、イエスのたとえ話の「よきサマリヤ人」だと思います。ルカ福音書10:25~37を見てみましょう。
 ある律法の専門家が、どうしたら「永遠のいのち」を得られるかとイエスに質問してきました。主は聖書には何と書いてあるかと聞き返します。良い答を引き出します。『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とありますと。主はすかさず言います。知っているなら、それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。律法の専門家はしつこい。「では、私の隣人とは、だれのことですか」と。その答えとして、たとえ話をしました(前提としてユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、互いに犬猿の仲だったこと)。
 「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います』」。
 主はこの三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思うかと問いかけます。「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えるしかない。主は「あなたも行って同じようにしなさい」と愛の実践を勧めます。読者に向かっても問いかけます。「あなたも行って同じようにしなさい」。
 神戸ホーリネス教会の齋藤信男牧師は民生委員をされていた時、関わりのあるお年寄りの不幸があり、それがショック。その時、「あなたも行って同じようにしなさい。」が示され、キリスト教の老人ホーム「愛の園」を建て上げました。愛の実践はそのような大きなことだけでなく、小さな親切もあれば、いくらでも機会はあります。大人も子供も誰でもよきサマリヤ人になる人です。与えることがいのちを得ることなのです。それは不思議なことです。よきサマリヤ人は愛の精神の象徴であり、模範であり、憧れでもあります。

◇憧れの方・真のよきサマリヤ人
 このたとえのサマリヤ人はイエス・キリストご自身とも解釈できます。病める人、貧しい人の隣人となられ、彼らをいやされました。十字架の上でご自身が犠牲となられ、私たちを罪の病からいやし(イザヤ53章)、永遠の命を与えてくださいました。ユダヤ人がサマリヤ人を蔑んでいたように、祭司長らはイエスを蔑みました。よきサマリヤ人のように、傷つき、半死半生の私たちをイエスは助け、傷の手当てをし、代価を払って、(神の)宿に入れてくれました。惜しみない愛が注がれました。生きておられるときは身近な愛の行いをなさり、死ぬときは究極なる愛の行いをなされました。その両者は切り離せないものでした。
 主はわたしに倣うものとなりなさいと教えられました。主はどういう生き方をされたのでしょうか。その要約がマタイ福音書4:23~24です。「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった」。神の国を教え、福音を宣べ伝え、あらゆる病気を直されたのです。
 私たちも主に倣い、その三つをさせてもらうのです。教会の私たちは十字架と復活の福音を伝えますが、いやしの業、愛の業を、見返りを求めないで致します。先日、全国の福音派で7年に一回の日本伝道会議が行われ、そこでこのような報告がありました。東日本大震災の時に、教会もボランティアとして行ったわけですが、ある人たちは心の支えが必要だ、伝道の機会だからとキリスト教の集会をしました。また、他の人たちはキリスト教のグループであっても、直接、伝道はせず、現地の人に必要な奉仕をしました。前者はもう来ないでくれと言われ、後者はまた来てくださいと言われたという報告がありました。信者獲得という自己目的化した宗教活動は拒否されたのです。伝道会議では後者を勧め、社会活動も愛の行為として、福音宣教に含まれる「包括的福音宣教」だと定義していました。
 この教会では開拓伝道ということで、伝道のためにパン教室をしてきました。その中から、信仰を持ち、受洗された方もおられます。しかし、多くの方はそうではありませんでした。しかし、教室には三種類の方が来ておられました。パン作りを習いに来ていた人、集まった人の交わりを楽しみに来ていた人、チャペルタイムの話を期待して来ていた人がいました。三者三様に、その場が提供でき、出会いがあったことも良かったし、特に子育てで悩んだり、苦労したりしている人にとって、チャペルタイムはお役に立ったようです。それも包括的福音宣教と受け止めて、これからも前向きに見返りを求めない愛の業に励んでいきたいと思います。「キリストに倣いて」そうしていきたいものです。
 礼拝において、まず、教えをいただき、福音をいただき、いやしの恵みをいただき、こう応答の三つの祈りをして、祝祷をもって遣わされていきましょう。「主よ、教えられました」。「主よ、信じます」。「主よ、恵まれました」。
 そして、主イエス・キリストの生き方に憧れていきたいですね。

新聖歌382
1. 心から願うのは主のようになること 御形に似るために世の宝捨てます
 *主のように主のように きよくしてください
  この心奥深く 御姿を写して
2.同情に満ちあふれ愛に富みやさしく 迷う人見いだして主の許に導く
3.謙遜と忍耐と勇気とに溢れて 人びとを救うため苦しみをいとわず