2013年8月11日 主日礼拝(エペソ1:15-23)岡田邦夫
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」エペソ1:23
「牧師は空を飛ぶ」という横山幹雄師のエッセイ集があります。先生が内灘聖書教会で牧会していた時には、毎週6つも7つも8つもの説教準備に追いたてられていて、そのプレッシャーで空を飛ぶ夢をしばしば見ていたので、それを書名にしたそうです。私も以前はよく空を平泳ぎで泳ぐ夢を見ましたが、最近は見なくなりました。ところが、先週、なぜか、空を飛ぶ夢を見ました。
そのような眠っている時の夢でもなく、何かを達成したいという夢でもない、もっと重要な夢があります。聖霊が降って、教会が誕生した時に明らかにされた聖霊による夢です(使徒2:17-18)。それは預言の成就であり、預言者ヨエルの言葉はこうです。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル2:28-29)。夢、幻は預言のことで、神の言葉を預かり、神の御旨に生きることです。ペテロは夢心地の時に天からの敷布の「幻」を見、パウロは「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」という懇願の「幻」を見ました(使徒10章、16章)。それは宣教の幻、地の果てまで証人となるという教会の使命でした。
◇見えない教会
一般に夢の実現というと自己実現ですが、教会の夢の実現というと御旨実現です。イエス・キリストはペテロの信仰告白がなされた時、言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門(=陰府の力)もそれには打ち勝てません」(マタイ16:17-18)。
しかも、わたしの教会とは信じられないような偉大なものだとエペソ人への手紙で述べています。「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(1:20ー23)。
これが「きよい公同の教会」=聖なる公同の教会なのです。教会の原語は「エクレーシア」=召し集められた者という意味です。この世から、復活の主が召し集め、この世からイエス・キリストの贖いによって聖別した共同体です。全時代、全民族の、全教派のキリストをかしらとする、見えない「一つの教会」です。見える教会の礼拝はそれぞれ言葉も違う、形も違う、規模も違うのですが、見えない所では同じ主を、同じ聖霊によって、同じ使徒信条をもって告白し、公同の礼拝を献げているのです。
◇見える教会
現実の教会、教会の現実を見ていると、そうは思えないのですが、パウロが祈っているように、私たちも祈りましょう。神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられますように、心の目がはっきりと見えるようになりますようにと。すでにキリストの血の贖いによってきよい聖なる教会ですが、現実の教会は一致と成長をつとめる必要があります。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」(エペソ4:11ー13)。「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです」(4:15-16)。
キリストのからだである教会の夢、幻は実に壮大です。横に向かっては真理と愛における一致、上に向かってはかしらなるキリストへの到達、外に向かっては地の果てまでの証詞なのです。それは神の御旨ですから、必ず成っていくことなのです。歴史はそこに向かっていないように見えますが、父なる神は教会の完成に向けて、全能の御手をもって進めておられるのです。そう信じるのです。きよい公同の教会を信じますというのはそういうことです。
さらに御旨を知らせ、御旨を実現させるのは聖霊です。教会を信じるというのは今ある教会に聖霊の業が起こると信じることです。そして、欠けのある私たちの教会ですが、そこに聖霊が教会の本質を現してくれることを信じ、期待することです。そうして、「使徒の働き」の続きを書き続けるのです。
ある日、三田泉教会の事を考えながら寝ました。その翌朝、み言葉が脳裡に浮かび、心に響きました。「下に根を張り、上に実を結ぶ」。井土ヶ谷教会の献堂記念のしおりに載せられていたみ言葉です。ちょうど、黒豆を300ほど植えて、芽が出てから、2~3回土寄せをするのですが、これが結構大変な労力でした。それをしておけば、木がしっかりと根を張り、実をたくさん着け、台風が来ても倒れないのです。そのことと、教会形成とが重なって思わされたのです。この教会も「下に根を張り、上に実を結ぶ」のだと。聖書の前後も見てみるとこうです。「ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする」(2列王19:30ー31、イザヤ37:31-32)。伝道という種蒔き、牧会という土寄せ、それがていねいになされるなら、教会という木自身が下に根を張り、上に実を結ぶに違いない、万軍の主の熱心がこれをして下さるに違いないと思わされたのです。
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」エペソ1:23
「牧師は空を飛ぶ」という横山幹雄師のエッセイ集があります。先生が内灘聖書教会で牧会していた時には、毎週6つも7つも8つもの説教準備に追いたてられていて、そのプレッシャーで空を飛ぶ夢をしばしば見ていたので、それを書名にしたそうです。私も以前はよく空を平泳ぎで泳ぐ夢を見ましたが、最近は見なくなりました。ところが、先週、なぜか、空を飛ぶ夢を見ました。
そのような眠っている時の夢でもなく、何かを達成したいという夢でもない、もっと重要な夢があります。聖霊が降って、教会が誕生した時に明らかにされた聖霊による夢です(使徒2:17-18)。それは預言の成就であり、預言者ヨエルの言葉はこうです。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル2:28-29)。夢、幻は預言のことで、神の言葉を預かり、神の御旨に生きることです。ペテロは夢心地の時に天からの敷布の「幻」を見、パウロは「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」という懇願の「幻」を見ました(使徒10章、16章)。それは宣教の幻、地の果てまで証人となるという教会の使命でした。
◇見えない教会
一般に夢の実現というと自己実現ですが、教会の夢の実現というと御旨実現です。イエス・キリストはペテロの信仰告白がなされた時、言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門(=陰府の力)もそれには打ち勝てません」(マタイ16:17-18)。
しかも、わたしの教会とは信じられないような偉大なものだとエペソ人への手紙で述べています。「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(1:20ー23)。
これが「きよい公同の教会」=聖なる公同の教会なのです。教会の原語は「エクレーシア」=召し集められた者という意味です。この世から、復活の主が召し集め、この世からイエス・キリストの贖いによって聖別した共同体です。全時代、全民族の、全教派のキリストをかしらとする、見えない「一つの教会」です。見える教会の礼拝はそれぞれ言葉も違う、形も違う、規模も違うのですが、見えない所では同じ主を、同じ聖霊によって、同じ使徒信条をもって告白し、公同の礼拝を献げているのです。
◇見える教会
現実の教会、教会の現実を見ていると、そうは思えないのですが、パウロが祈っているように、私たちも祈りましょう。神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられますように、心の目がはっきりと見えるようになりますようにと。すでにキリストの血の贖いによってきよい聖なる教会ですが、現実の教会は一致と成長をつとめる必要があります。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」(エペソ4:11ー13)。「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです」(4:15-16)。
キリストのからだである教会の夢、幻は実に壮大です。横に向かっては真理と愛における一致、上に向かってはかしらなるキリストへの到達、外に向かっては地の果てまでの証詞なのです。それは神の御旨ですから、必ず成っていくことなのです。歴史はそこに向かっていないように見えますが、父なる神は教会の完成に向けて、全能の御手をもって進めておられるのです。そう信じるのです。きよい公同の教会を信じますというのはそういうことです。
さらに御旨を知らせ、御旨を実現させるのは聖霊です。教会を信じるというのは今ある教会に聖霊の業が起こると信じることです。そして、欠けのある私たちの教会ですが、そこに聖霊が教会の本質を現してくれることを信じ、期待することです。そうして、「使徒の働き」の続きを書き続けるのです。
ある日、三田泉教会の事を考えながら寝ました。その翌朝、み言葉が脳裡に浮かび、心に響きました。「下に根を張り、上に実を結ぶ」。井土ヶ谷教会の献堂記念のしおりに載せられていたみ言葉です。ちょうど、黒豆を300ほど植えて、芽が出てから、2~3回土寄せをするのですが、これが結構大変な労力でした。それをしておけば、木がしっかりと根を張り、実をたくさん着け、台風が来ても倒れないのです。そのことと、教会形成とが重なって思わされたのです。この教会も「下に根を張り、上に実を結ぶ」のだと。聖書の前後も見てみるとこうです。「ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする」(2列王19:30ー31、イザヤ37:31-32)。伝道という種蒔き、牧会という土寄せ、それがていねいになされるなら、教会という木自身が下に根を張り、上に実を結ぶに違いない、万軍の主の熱心がこれをして下さるに違いないと思わされたのです。