オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

キリストの復活

2013-07-14 00:00:00 | 礼拝説教
2013年7月14日 主日礼拝(ヨハネ福音書20:24-29)岡田邦夫


 「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのです」(1コリント15:20口語訳)。

 先週の礼拝は四泉教会合同で私が説教、このような機会はそうないと思い、凝った構成で御用をさせていただきました。私の苦手とするところですが、いくつかのキーワードを織りなしながら、話を進めていくという、バイブル・リーディングというものに挑戦してみたわけです。その時の中心のキーワードは「つながらないものをつなぐ」でしたが、今日お話しする復活についても、それがあてはまります。
 人は死んで終わり、その後がない、その後は想像の世界、というのが一般的通念でしょう。「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る」と伝道者は言い、だから、若い日に創造者を覚えよとメッセージがなされています(3:19ー3:20)。試練の中のヨブは嘆きます(14:7、14:14)。「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない」。「人が死ぬと、生き返るでしょうか」。しかし、試練のどん底から、その向こうに復活の光を見るのです。復活の預言です。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」(19:25)。
 旧約においては死後の復活はおぼろげであったのですが、イエス・キリストはこれを真昼のように明らかにされたのです。復活を説き、指し示しただけではなく、私たちに先立ち、ご自身が初穂として復活されたのです(1コリント15:20)。

◇復活の事実
 十字架からおろされたイエスのご遺体はアリマタヤのヨセフの墓に葬られました。金曜の午後だったので、その日没から安息日になるため、亜麻布をまくだけで、香油をぬるなど、葬りの用意を出来ず仕舞いでした。日曜日、すなわち安息日あけの朝、イエスに従う女性たちが香油をもって、墓に行く。大きな墓石がころがしてあり、墓は亜麻布だけで、イエスのご遺体がない。そこで、御使いも現れますが、復活されたイエス・キリストがマグダラのマリヤに現れます(マルコ16:9、ヨハネ20:14)。その驚きようは大変なものでした。それが最初です。他の記録ですと、女性たちが復活のイエスに出会ったとあります(マタイ28:10)。それは弟子たちに伝達するためでもありました。エマオ村に向かって道行く二人の弟子にも現れました。初めは普通の旅人にしか見えなかったのですが、聖書が解き明かされ、二人の心が燃やされ、宿について、パンをさかれるのを見て、目が開かれて、イエスだとわかったという感動の出会いでした(ルカ24:13-34)。二人はもどって、仲間の弟子たちにこのことを伝えます。
 復活の主に最初にであった、これらの人たち、最初はわからないのですが、目が開かれてわかります。死んだはずのイエスがここにいて生きている、生前のイエスである、それこそ、つながらないのにつながっている。専門用語で言うなら「非連続の連続」なのです。生前のイエスと死後のイエスと全く変わらず、同じ方でつながっている。しかし、死ぬべき体は栄光の体によみがって、全く違うものになっている。非連続なのです。
 そして、集まってる弟子たちに現れました。聖書をそのまま読みましょう。「これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。『なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。』それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった」(ルカ24:36-43 )。
 「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのです」(1コリント15:20口語訳)。

◇信仰の事実
 まだ、復活の主に出会った弟子がいます。それがトマスです。先ほどの弟子たちに主が現れた時にいなかったのがトマス。出会ってないからこう言うのです。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(ヨハネ20:25)。その続きは聖書を読みましょう。「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように。』と言われた。それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」(ヨハネ20:26ー29)。
 疑い深いトマスだとか、不信仰のトマスだとか、レッテルが貼られていますが、それではトマスに失礼です。疑い深く、不信仰だったのはトマスに限らず、弟子たちはみなそうだったのです。聖書に書いてあります。むしろ、トマスは復活の主としっかり向き合い、信じる者になりなさいと言われ、しっかりと信じたので、わざわざ、ヨハネは記事にしたのです。「私の主。私の神。」と信仰告白をしたではありませんか。最高の応答をしたのです。ですから、ヨハネはこう文章をつなげます。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(20:31)。
 イエス・キリストが事実、復活されたとしても、信じなければ、意味がなく、空しいだけです。トマスは使徒ですから、見て信じたのですが、私たちはそれらのキリスト復活の証人たちがいて、証言があって、見ないで信じるのです。ペンテコステの日に降った聖霊がそうさせてくれるのです。信じる者には永遠の命は与えられ、キリスト再臨の時に、主と同じ栄光の体によみがえるのです。聖なるイエスに罪深い人間がつながるはずはないのですけれど、主が十字架において、罪の赦し、贖いをなし遂げられて、主を信じるものとの間の壁が取り払われ、親密につながりを持つようになったのです。
 そればかりではなく、「私の主。私の神。」と信じるということはキリストと共に死にキリストと共に生きるということです。イエス・キリストと私とが合体することなのです。イエスの生涯と私の生涯の合体なのです。結びつかないものを結びつけるのが聖霊です。死は死でも復活に向かう死なのです。これこそが最も大事な福音なのです(1コリント15:3)。わが復活を信じましょう。「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのです」(1コリント15:20口語訳)。