2012年5月13日 主日礼拝(ローマ6:1-11)岡田邦夫
「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」(ローマ人への手紙6:3)
食事をいっぱい食べた後に甘いケーキが出されても、それが好きなものであれば、「ケーキは別腹だから」と言って、満腹なのに食べられてしまうことがよくあります。何かケーキの入る場所は別のように感じられます。それが気のせいなのかどうか、実験をしたことがテレビで放映されていました。レントゲンで満腹状態を確かめ、ケーキを見せます。すると、胃が活発に動きだして、腸に送り出し、胃の上部に大きく空きが出来て、ケーキが入ってくる準備するのです。脳がそのように指令を出し、胃が迅速に対応しているわけです。別の胃袋があるわけではありませんが、そこには科学的な法則があると説明が出来ます。
科学とは別に、信仰に法則があることが聖書、特に、ローマ人への手紙8章2節に述べられています。新改訳は「原理」と訳していますが、口語訳、新共同訳では「法則」と訳されています。「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」。6章3節ではこの法則を「あなたがたは知らないのですか」。知らないと損ですよ。とても大事な法則で、ぜひ知っていてほしいものですと私たちに訴えています。
◇信仰の法則
まず、「ように」の法則です。初めに、神は天と地を創造されました。造られた人間が罪を犯し、神から離れますが、イエス・キリストが十字架にかかり、復活され、救いをなし遂げられました。やがて、終わりの日が来て、その後、古い天地は消え去り、新しい天と地が現れます。世界の歴史は初めがあり、終わりがあって、時の中心があるという構図です。主は「そのように」信仰者を導かれます。私という人間がこの世に誕生する。やがて、主を信じて、洗礼(バプテスマ)を受け、人生が新しくなります。そして、肉体は死ぬのですが、やがての日に復活に与ります。世界の歴史を縮小した「ように」、私の歴史も全体を眺めれば、初めがあり、終わりがあって、バプテスマという時の中心があるという構図です。すべてにキリスト者がそうなのです。
その考えはヘブル人への手紙9:26-28に記されています。「キリストはただ一度、今の世の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」。一度で完全なのです。平らな所に、水差しから一点に水を注ぐと、水は平面上に広がっていきます。神の救いの恵みは2000年前、ユダヤで、贖いの恵みが一度だけ注がれたのですが、その恵みは全世界に広がり、全歴史、過去にも未来にも流れ出したのです。そのように、キリスト者の人生の中心はバプテスマであり、そこから、救いの恵みが過去にも未来にも流れ、及んでいるのです。バプテスマは父と子と聖霊との名においてなされたのですから、一度で完全で、その救いは私の人生のすべてに及ぶはずです。
ローマ人への手紙6:3-5を見てみましょう。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」。
キリストが十字架で死に、よみがえられた時と、私がバプテスマを受けた時とを結びあわせてくださったのです。完全に死に、完全によみがえったキリストにあずかったのです。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」と述べて、キリスト者がその恵みを知って、罪の奴隷にならず、神のしもべと生きるようにと勧めているのです。
これはずいぶん飛躍していて、大胆な考えに見えますが、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」と勧めています(6:11)。聖書が言っている、この信仰の法則をしっかりつかんでいきましょう。
◇御霊の法則
それでは、一点に注がれた水が左右に流れるように、救いの恵みは私の生涯にどう及んでいるのでしょうか。それが御霊の法則です。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」とありますように、御霊(聖霊)は時を越えて、恵みを「今」に持ってきてくださる方です(8:1-2)。私たちの流れは信仰の体験を大切にします。ですから、洗礼を受ける前に「新生」の信仰体験をされるように勧めます。古い罪につける人生に死んで、キリストにある新しい人生が始まるという、新しく生まれる「新生」の信仰体験は、バプテスマの「先取り」の霊的体験なのです。キリストと共に死に、キリストと共によみがえるということが同じ形だからです。教会という公の場で三位一体の神の名によってなされるバプテスマを、個人的で、霊的な新生体験として、聖霊が先取りさせてくださるのです。それが劇的に感じられようと、淡々としたものに感じられようと、バプテスマに結びつける御霊の働きですから、重要なのです。言い換えれば、新生体験とバプテスマの礼典とは切り離せない、一つのものなのです。
先ほどのローマ6章でバプテスマの意味、意義が語られていますが、授洗後、罪の奴隷ではなく、神のしもべとして、聖霊と信仰によって、生きることを勧めているところです。そして、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」と言っています(6:11、口語訳「認めなさい」、新共同訳「考えなさい」)。この言葉を総合すると、思いなさい(感情的に)、考えなさい(理性的に)、認めなさい(意志的に)となりましょうか。全身で受けとめるということなのでしょう。すでに、バプテスマの恵みに与った、しかし、キリスト者となって、時がたった「今」自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと受けとめる信仰にたつのです。それが聖化あるいはきよめの信仰体験なのです。バプテスマの後取りという法則です。現実にはキリスト者になってからの方が、罪認識は深まり、悩みも大きくなります。しかし、あらためて罪を悔い改め、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと聖霊によって「今」信じた時に、新生が第一の転機として、その体験が第二の転機に感じられます。あるいは洗礼式が水でなされることに対比して、キリスト者になってから、上記のような霊的に扱われた体験を聖霊のバプテスマだと表現したくもなる恵みの体験です。
しかし、原理はひとつです。私はキリストと共に死に、キリストと共によみがえったと信じるバプテスマの原理は同じです。それを聖霊というお方は私たちに先取りさせたり、後取りさせたりと、「今」の体験にして、信仰を実感させてくださるのです。ですから、御霊は7章にあるように律法によって罪を示すのです。そして、8章にあるように福音によって解放させるのです。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(8:1ー2)。
さらに、この法則の完結は復活、栄光に化せられる「栄化」です。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(1コリント15:52 )。
私は受洗した時に、罪につける過去の私が死んで、キリストにある新しい人生が始まったと信じました。時がたつと信仰が曖昧になり、もやもやしていました。その様な中で、一つのことをきっかけに、自分の罪というものがいやというほど示されました。一夜、その様な自分に涙して悔い改めて過ごしました。翌朝、出勤途中の電車の中で、主の御声を心のうちに聞きました。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです」(ヨハネ17:14、16)。主はこの世のものではない聖なる方、自分はこの世の者、汚れきった者、それなのに、十字架の血によって、きよめ、聖別し、キリスト「のように」世のものではない聖なる者だと宣言をいただいたのです。とてもそうしていただけはしないのに、この世のものではないと言い切ってくださったのです。アメイジング・グレイスとしか言いようがありませんでした。8章の解放されたという感をもちました。ここにも「ように」の圧倒される恵みの法則があるのです。
私の今という時、恵みを届けてくださる御霊の導きという法則の中に身をおいて生きましょう。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」考えなさい。認めなさい(6:11)。
「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」(ローマ人への手紙6:3)
食事をいっぱい食べた後に甘いケーキが出されても、それが好きなものであれば、「ケーキは別腹だから」と言って、満腹なのに食べられてしまうことがよくあります。何かケーキの入る場所は別のように感じられます。それが気のせいなのかどうか、実験をしたことがテレビで放映されていました。レントゲンで満腹状態を確かめ、ケーキを見せます。すると、胃が活発に動きだして、腸に送り出し、胃の上部に大きく空きが出来て、ケーキが入ってくる準備するのです。脳がそのように指令を出し、胃が迅速に対応しているわけです。別の胃袋があるわけではありませんが、そこには科学的な法則があると説明が出来ます。
科学とは別に、信仰に法則があることが聖書、特に、ローマ人への手紙8章2節に述べられています。新改訳は「原理」と訳していますが、口語訳、新共同訳では「法則」と訳されています。「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」。6章3節ではこの法則を「あなたがたは知らないのですか」。知らないと損ですよ。とても大事な法則で、ぜひ知っていてほしいものですと私たちに訴えています。
◇信仰の法則
まず、「ように」の法則です。初めに、神は天と地を創造されました。造られた人間が罪を犯し、神から離れますが、イエス・キリストが十字架にかかり、復活され、救いをなし遂げられました。やがて、終わりの日が来て、その後、古い天地は消え去り、新しい天と地が現れます。世界の歴史は初めがあり、終わりがあって、時の中心があるという構図です。主は「そのように」信仰者を導かれます。私という人間がこの世に誕生する。やがて、主を信じて、洗礼(バプテスマ)を受け、人生が新しくなります。そして、肉体は死ぬのですが、やがての日に復活に与ります。世界の歴史を縮小した「ように」、私の歴史も全体を眺めれば、初めがあり、終わりがあって、バプテスマという時の中心があるという構図です。すべてにキリスト者がそうなのです。
その考えはヘブル人への手紙9:26-28に記されています。「キリストはただ一度、今の世の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」。一度で完全なのです。平らな所に、水差しから一点に水を注ぐと、水は平面上に広がっていきます。神の救いの恵みは2000年前、ユダヤで、贖いの恵みが一度だけ注がれたのですが、その恵みは全世界に広がり、全歴史、過去にも未来にも流れ出したのです。そのように、キリスト者の人生の中心はバプテスマであり、そこから、救いの恵みが過去にも未来にも流れ、及んでいるのです。バプテスマは父と子と聖霊との名においてなされたのですから、一度で完全で、その救いは私の人生のすべてに及ぶはずです。
ローマ人への手紙6:3-5を見てみましょう。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」。
キリストが十字架で死に、よみがえられた時と、私がバプテスマを受けた時とを結びあわせてくださったのです。完全に死に、完全によみがえったキリストにあずかったのです。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」と述べて、キリスト者がその恵みを知って、罪の奴隷にならず、神のしもべと生きるようにと勧めているのです。
これはずいぶん飛躍していて、大胆な考えに見えますが、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」と勧めています(6:11)。聖書が言っている、この信仰の法則をしっかりつかんでいきましょう。
◇御霊の法則
それでは、一点に注がれた水が左右に流れるように、救いの恵みは私の生涯にどう及んでいるのでしょうか。それが御霊の法則です。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」とありますように、御霊(聖霊)は時を越えて、恵みを「今」に持ってきてくださる方です(8:1-2)。私たちの流れは信仰の体験を大切にします。ですから、洗礼を受ける前に「新生」の信仰体験をされるように勧めます。古い罪につける人生に死んで、キリストにある新しい人生が始まるという、新しく生まれる「新生」の信仰体験は、バプテスマの「先取り」の霊的体験なのです。キリストと共に死に、キリストと共によみがえるということが同じ形だからです。教会という公の場で三位一体の神の名によってなされるバプテスマを、個人的で、霊的な新生体験として、聖霊が先取りさせてくださるのです。それが劇的に感じられようと、淡々としたものに感じられようと、バプテスマに結びつける御霊の働きですから、重要なのです。言い換えれば、新生体験とバプテスマの礼典とは切り離せない、一つのものなのです。
先ほどのローマ6章でバプテスマの意味、意義が語られていますが、授洗後、罪の奴隷ではなく、神のしもべとして、聖霊と信仰によって、生きることを勧めているところです。そして、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」と言っています(6:11、口語訳「認めなさい」、新共同訳「考えなさい」)。この言葉を総合すると、思いなさい(感情的に)、考えなさい(理性的に)、認めなさい(意志的に)となりましょうか。全身で受けとめるということなのでしょう。すでに、バプテスマの恵みに与った、しかし、キリスト者となって、時がたった「今」自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと受けとめる信仰にたつのです。それが聖化あるいはきよめの信仰体験なのです。バプテスマの後取りという法則です。現実にはキリスト者になってからの方が、罪認識は深まり、悩みも大きくなります。しかし、あらためて罪を悔い改め、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと聖霊によって「今」信じた時に、新生が第一の転機として、その体験が第二の転機に感じられます。あるいは洗礼式が水でなされることに対比して、キリスト者になってから、上記のような霊的に扱われた体験を聖霊のバプテスマだと表現したくもなる恵みの体験です。
しかし、原理はひとつです。私はキリストと共に死に、キリストと共によみがえったと信じるバプテスマの原理は同じです。それを聖霊というお方は私たちに先取りさせたり、後取りさせたりと、「今」の体験にして、信仰を実感させてくださるのです。ですから、御霊は7章にあるように律法によって罪を示すのです。そして、8章にあるように福音によって解放させるのです。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(8:1ー2)。
さらに、この法則の完結は復活、栄光に化せられる「栄化」です。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(1コリント15:52 )。
私は受洗した時に、罪につける過去の私が死んで、キリストにある新しい人生が始まったと信じました。時がたつと信仰が曖昧になり、もやもやしていました。その様な中で、一つのことをきっかけに、自分の罪というものがいやというほど示されました。一夜、その様な自分に涙して悔い改めて過ごしました。翌朝、出勤途中の電車の中で、主の御声を心のうちに聞きました。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです」(ヨハネ17:14、16)。主はこの世のものではない聖なる方、自分はこの世の者、汚れきった者、それなのに、十字架の血によって、きよめ、聖別し、キリスト「のように」世のものではない聖なる者だと宣言をいただいたのです。とてもそうしていただけはしないのに、この世のものではないと言い切ってくださったのです。アメイジング・グレイスとしか言いようがありませんでした。8章の解放されたという感をもちました。ここにも「ように」の圧倒される恵みの法則があるのです。
私の今という時、恵みを届けてくださる御霊の導きという法則の中に身をおいて生きましょう。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」考えなさい。認めなさい(6:11)。