2012年5月6日 主日礼拝(ローマ3:21-30)岡田邦夫
「神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:21-22)
私が高校1年の時、社会の最初の授業で、先生がこう教えてくれました。人が二人以上集まると社会ができる、その社会にはルールが必要となってくる、それが法であるというものでした。テレビで一つの事例をあげて、法律ではどうなっているのかというクイズ番組があります。例えば、お隣に柿の木があって、その枝が塀を越えて自分の敷地の方に伸びて、しかも、実が着いている。それを、敷地内だからかまわないだろうと、持ち主の許可なく捕ってしまうと、法律では罪になるのか。また、お隣の竹の根がのびて、塀の下を通って、こちらの敷地にたけのこが出て来た。これも断りなしに掘って、とった。これは法律では罪になるのか。前者は罪になり、後者は罪にならないというのが正解だというようものです。
◇聖書は法的
聖書の内容は法的書物なのです。旧約聖書、新約聖書の「約」は契約の約です。神と人間との関係、ある意味での社会での契約です。旧契約書と新契約書の二部構成になっているのです。創世記の1~12章は契約書の序文です。「初めに、神は…」とあるのは主権者は神だということです。そして、造られた人間が神のようになろうと禁止された行為をしてしまって、人類に罪と死が入り込んだことを述べているのです(創世記3章、ローマ5:17-19)。12章からは神が選んだアブラハムとの契約で始まる「救いの契約」の本分です。しかし、選ばれた民の側に「あなたには、わたしをおいてほかに神(かみ)があってはならない。あなたはいかなる像(ぞう)も造(つく)ってはならない。」などの契約を破り、それがくりかえされるので、すなわち、契約不履行なので、救いがなされないことになります。そこで、神の側で新しい契約を結ぶことにしました。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」と明記(エレミヤ31:31)。
◇救いは法的
堅い話になりましたが、神との関係の話ですから、いい加減だったり、あいまいだったりではいけませんので、どうしても、そうなります。続けてお聞きください。この神と人の契約は神との正しい関係を持つためのものです。その正しい関係を「義」といい、神との正しい関係を「神の義」といいます。パウロは神の義は啓示されたと1章で言います。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです」(1:16ー17)。3章でも言います。「神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」(3:21-22)。
私たち、人間は例外なく、神の法を犯して、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」という状況です。(3:10-11)「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」という悲惨な状態におかれています(3:23)。どんなに良いことをし、善行を積み重ねても、法を犯している以上、償うことは出来ず、神に裁かれなければならず、救われる道はないのです。
そこで、神がとられた手段は法的手段です。イエス・キリストが十字架にかかりなし遂げられたのは、私たち、罪人が神に与えた損害を、私たちが絶対払えない分を、イエス・キリストの命で賠償金(代価)を全部はらわれたのです。私たちの犯してきた罪の大きさ、重さは、神の怒りをかうものです。ニュースなどで、殺人など悲惨な事件があると、被害者の家族は加害者を死刑にしてほしいと怒りをあらわにしている様子が報道されることがあります。私たちは何か辛いことがあると、神さまどうしてこんな事を私にされるのですかと言ってしまうものです。それはそれでありのままでよいのですし、そこから、神への信頼に展開すればよいのですが、よく考えれば、私たちは神の前で、神に怒りをぶつける被害者の側にいるのではなく、神の怒りをかう加害者の側にいるのです。しかし、イエス・キリストが十字架につけられ、血をながし、なだめの供え物となられ、神が神自らをなだめられたのです。
◇信仰は法的
ですから、すでに賠償済みなのです。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(3:24)。良い行いをしたりして、償いをする必要はなく、だだ、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた。」と信じるだけで、神との正しい関係に回復できるのです(4:25)。「それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」(3:26)。行ないの原理によってではなく、信仰の原理によってなのです。いいかえれば、行ないの法によってではなく、信仰の法によって、神の義が全うされるです。
十字架にかけられた強盗の話がルカ福音書にでてきます。そのひとりがもうひとりに向かって「たしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(23:40ー43)。この社会では犯した罪は裁かれ、命をもって償ったわけですが、神の国の社会では悔い改めて、イエス・キリストをただ信じるだけで、義とされ、神の恵みによってパラダイス・楽園に入れていただけたのです。神の法ではそうなっているからです。
私は悔い改めて、イエス・キリストの十字架を信じたのですが、天国に行けるのでしょうか、神の国の法律ではどうなっているのでしょうか、という質問への答はこうです。御国の法律ではイエス・キリストの贖いによって、あなたの罪は確定せず、無罪とされ、信仰の条件もはたされ、神の義が満たされていているので、天国行きは確定しています。聖書66巻からなる、神の「絶対法」ではそうなっています。安心してください。ただ、悔い改めることを怠らないように、最後まで信仰をなくさないように。
「神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:21-22)
私が高校1年の時、社会の最初の授業で、先生がこう教えてくれました。人が二人以上集まると社会ができる、その社会にはルールが必要となってくる、それが法であるというものでした。テレビで一つの事例をあげて、法律ではどうなっているのかというクイズ番組があります。例えば、お隣に柿の木があって、その枝が塀を越えて自分の敷地の方に伸びて、しかも、実が着いている。それを、敷地内だからかまわないだろうと、持ち主の許可なく捕ってしまうと、法律では罪になるのか。また、お隣の竹の根がのびて、塀の下を通って、こちらの敷地にたけのこが出て来た。これも断りなしに掘って、とった。これは法律では罪になるのか。前者は罪になり、後者は罪にならないというのが正解だというようものです。
◇聖書は法的
聖書の内容は法的書物なのです。旧約聖書、新約聖書の「約」は契約の約です。神と人間との関係、ある意味での社会での契約です。旧契約書と新契約書の二部構成になっているのです。創世記の1~12章は契約書の序文です。「初めに、神は…」とあるのは主権者は神だということです。そして、造られた人間が神のようになろうと禁止された行為をしてしまって、人類に罪と死が入り込んだことを述べているのです(創世記3章、ローマ5:17-19)。12章からは神が選んだアブラハムとの契約で始まる「救いの契約」の本分です。しかし、選ばれた民の側に「あなたには、わたしをおいてほかに神(かみ)があってはならない。あなたはいかなる像(ぞう)も造(つく)ってはならない。」などの契約を破り、それがくりかえされるので、すなわち、契約不履行なので、救いがなされないことになります。そこで、神の側で新しい契約を結ぶことにしました。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」と明記(エレミヤ31:31)。
◇救いは法的
堅い話になりましたが、神との関係の話ですから、いい加減だったり、あいまいだったりではいけませんので、どうしても、そうなります。続けてお聞きください。この神と人の契約は神との正しい関係を持つためのものです。その正しい関係を「義」といい、神との正しい関係を「神の義」といいます。パウロは神の義は啓示されたと1章で言います。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです」(1:16ー17)。3章でも言います。「神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」(3:21-22)。
私たち、人間は例外なく、神の法を犯して、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」という状況です。(3:10-11)「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」という悲惨な状態におかれています(3:23)。どんなに良いことをし、善行を積み重ねても、法を犯している以上、償うことは出来ず、神に裁かれなければならず、救われる道はないのです。
そこで、神がとられた手段は法的手段です。イエス・キリストが十字架にかかりなし遂げられたのは、私たち、罪人が神に与えた損害を、私たちが絶対払えない分を、イエス・キリストの命で賠償金(代価)を全部はらわれたのです。私たちの犯してきた罪の大きさ、重さは、神の怒りをかうものです。ニュースなどで、殺人など悲惨な事件があると、被害者の家族は加害者を死刑にしてほしいと怒りをあらわにしている様子が報道されることがあります。私たちは何か辛いことがあると、神さまどうしてこんな事を私にされるのですかと言ってしまうものです。それはそれでありのままでよいのですし、そこから、神への信頼に展開すればよいのですが、よく考えれば、私たちは神の前で、神に怒りをぶつける被害者の側にいるのではなく、神の怒りをかう加害者の側にいるのです。しかし、イエス・キリストが十字架につけられ、血をながし、なだめの供え物となられ、神が神自らをなだめられたのです。
◇信仰は法的
ですから、すでに賠償済みなのです。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(3:24)。良い行いをしたりして、償いをする必要はなく、だだ、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた。」と信じるだけで、神との正しい関係に回復できるのです(4:25)。「それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」(3:26)。行ないの原理によってではなく、信仰の原理によってなのです。いいかえれば、行ないの法によってではなく、信仰の法によって、神の義が全うされるです。
十字架にかけられた強盗の話がルカ福音書にでてきます。そのひとりがもうひとりに向かって「たしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(23:40ー43)。この社会では犯した罪は裁かれ、命をもって償ったわけですが、神の国の社会では悔い改めて、イエス・キリストをただ信じるだけで、義とされ、神の恵みによってパラダイス・楽園に入れていただけたのです。神の法ではそうなっているからです。
私は悔い改めて、イエス・キリストの十字架を信じたのですが、天国に行けるのでしょうか、神の国の法律ではどうなっているのでしょうか、という質問への答はこうです。御国の法律ではイエス・キリストの贖いによって、あなたの罪は確定せず、無罪とされ、信仰の条件もはたされ、神の義が満たされていているので、天国行きは確定しています。聖書66巻からなる、神の「絶対法」ではそうなっています。安心してください。ただ、悔い改めることを怠らないように、最後まで信仰をなくさないように。