連帯責任は無責任と同意語だと思う。
要は失敗の責任の重さを、当事者ではなく無関係な人たちにまで背負わせて軽減しようとする誤魔化しだと思う。実のところ私は学生時代、この連帯責任という奴を散々取らされている。だからはっきりと言ってやる。
連帯責任を取らされて、真剣に責任の重さを痛感したことなんざ一度たりともない。思い出すのは「俺、関係ないじゃん」という口には出せない愚痴だけだ。はっきり言うが、連帯責任が有効なのが一定の仲間意識が成立している場合だけだ。
だが大概の場合、なんで自分が巻き込まれるのだとの被害者意識が出るだけで、事態の改善には役に立たないと思う。ところが日本では別の使い方もある。それは個人の責任を薄めて、個人攻撃をさせないための連帯責任である。
先日、高知県の中学校のプールで起きた水死事故がこのケースだと思う。なんらかの理由で小学校のプールが使えず、近くの中学校のプールを活用することを悪いとは言わない。しかし、どう考えても中学校のプールのほうが深い。
そこに泳ぎが苦手な子供を入れたら、当然に危険視して普段よりも監視を厳しくするのが普通だと思う。しかし引率の教師2名と教頭は、事故の場面に気が付かず、生徒たちが気が付いて救助したという。残念ながら病院で死亡が確認されただけであった。
おかしいのはこの事件を受けての高知県の教育委員会の対応策だ。曰く、原因究明のため高知県の小中学校での水泳の授業は、本年度は中止とのこと。
馬鹿なの、本当にバカとしか言いようがない。
原因なんて簡単。3名の教師が十分に監視していなかった。ただ、それだけだ。
小学校のプールであろうと、中学校のプールであろうと事故は発生しうる。それが水泳であり、だからこそ教師の指導の下、安全に泳げるように授業をする。その教師がやるべきことを怠っただけ。
私が視聴した幾つかのニュースでは、子を持つ親や教職関係者の「プール授業の中止はやむを得ないでしょうね」などと、高知県の教育委員会の対応を支持する発言を取り上げていた。
取材もされず、無視されているのは、この猛烈な暑さの中、プールの授業を楽しみにしている小学生たちであり、事故の巻き添えになった中学校の生徒たちの不満であろう。そりゃ、一定の追悼の意味でのプールの授業を中断することは分かる。しかし、ひと夏プールの授業をやらないのは教育の放棄だ。
教育とは教えて育てることである。教えないことでも、育てないことでもない。プールの授業をなくせば事故は起こらないとの短絡的思考の犠牲者が子供たちである。教えるべきは安全に泳げることであり、教えることを回避することではない。
つまるところ教育委員会の目的は悲惨な事故の記憶を薄めることであり、教員個人への責任追及をさせないことなのだろう。
で、子供の教育はどうなった。泳ぎ方、水中での行動の仕方などを学ぶ機会を奪っておいて、事件の希薄化を目指すのが高知の教育なのか。子供を教え導く覚悟の無い教師たちを保護することが、日本の教育に益するとは思えませんね。
ヌマンタさんの記事はいつも本質をついておられて、毎回、瞠目しながら読ませて頂いておりますが、、、今回の教育委員会の措置は酷すぎますね。
おそらく、同じような事が何処でも繰り返されていると思うと恐ろしいですし、それを垂れ流すだけのマスコミの罪は重いですね。
この件、私も酷いと思いました。お役所の無責任体質、ここに極まれり、ですわ。仰る通り、「連帯責任」とは、大人の管理責任の所在を曖昧にする誤魔化しの手段として機能し、主役たる子ども達の権利が奪われた形になっています。これでろくに子ども達が水泳指導も受けずに海や川に行って溺れでもしたら、誰が責任を取るんでしょうね。
確か、当該小学校のプールは改修工事で使えず、近隣の中学校のプールを借りたとの話だったと思いますが、他の小学校のプールを借りられなかったのか?
また、小学生へのプール指導で監視の目が少な過ぎる。私の子供の学校(公立)のプール教室では、教師以外にPTAの役員が当番制で駆り出されました。今は共働き世帯が増えて、それも難しくなったのでしょうか?
亡くなられた児童は、特にケアを必要とするお子さんだったと言う話もあり、なおさら大人の目が必要だったケースです。気の毒でなりません。