ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

Jリーガー小倉隆史の引退

2006-02-13 12:27:00 | スポーツ
初めてその雄姿を見たのは、92年正月の高校サッカーにおいてでした。長身でありながら、肩幅ががっちりして、足技も巧く、ドリブルが得意。なによりも、得点感覚に優れたストライカー、それが四日市中央高校のFW、小倉隆史でした。

その年の決勝戦は、東京の名門・帝京と四日市中央との試合でした。1点差で帝京が逃げ切る寸前、小倉の同点ヘッドが叩き込まれた時、国立競技場は一瞬の静寂から、怒号を伴う歓声に包まれたものでした。試合は両高優勝という形で終わりましたが、小倉の名前は全国に轟きました。

彼はその後、オランダの2部エクセルオールに留学し、チームの得点王となり、惜しまれながら帰国し、名古屋グランパスに入団しました。帰国2戦目だと思いますが、東京・等々力競技場で当時最強の名を欲しいままにしたヴェルディとの一戦は、まさに衝撃的でした。

キャプテン・柱谷をドリブルで振り切り、ブラジル代表歴のあるカピトンをまた抜きし、MVPディフェンダー・ペレイラと激しく競り合いながら、ゴールを切り裂く彼の姿は、まさに未来の日本代表のエースそのものでした。

かねてから、日本サッカー界が望んで得られなかった大型FW選手。高さと速さと、テクニックを持ち合わせた期待のエースの登場だと、誰もが確信したものでした。日本は不思議なことに、中盤に優秀な選手が多く、それに対して前線には世界に通用する人材が育たなかった。そのため、小倉選手に対する期待は高まるばかりでした。

彼はアトランタ五輪のチームの中心選手でもありました。当時、このチームには、GKに川口、DFに田中誠、鈴木秀人、サイドに服部、中盤に前園、中田英、伊東輝、FWに城、松原と人材の宝庫でしたが、エースは間違いなく小倉でした。

サッカーというスメ[ツは何が面白いって、ボールを持った瞬間、その選手が4番バッターであり、エースピッチャーでもあるのです。そして、チームのなかで一番信頼を集める選手にボールが、自然と集まるスメ[ツでもあります。アトランタ五輪のサッカーチームでは、その中心が小倉でした。

しかし、シンガメ[ルでの練習中、彼は膝を断裂する重症を負い、チームから離れます。後を継いだ前園がチームの中心となり、あのアタランタの奇跡といわれた、ブラジル戦の勝利を起こしたのは有名な話です。

小倉は、その後も怪我とリハビリに終われ、あのベンゲル監督から「才能ならピクシー以上」とまで言われながらも、万全の体調に戻ることありませんでした。ヴェルディをはじめ幾つものチームを渡り歩き、最後はJ2ヴァンホーレ甲府を解雇されて選手としての経歴を終えることとなりました。

菊原、磯貝、財前と有望な若手が伸び悩み、潰れていく日本サッカー界の問題点を浮き彫りにしたのが、小倉隆史の存在ではないかと私は考えています。その後、中田英の飛躍、稲本、小野らが活躍していますが、私の目には小倉ほど輝いた選手はいませんでした。残念でなりません。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする