のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『落下の王国』3

2008-10-10 | 映画
*** 今回はネタバレ話でございます。主にラストに触れておりますので、未見のかたはできればお読みになりませんよう ***




ロイが語る、6人の男の物語。
主人公である仮面の黒盗賊は、初めはアレクサンドリアの亡くなった父の姿で現れますが、物語が進み、中盤でいよいよ仮面を取るとロイの顔が現れます。
ここには二重の意味がございます。アレクサンドリアの側から見れば、彼女にとってロイが、父と同じように特別な人になったということ。そしてロイの側から見れば、アレクサンドリアの気を引くために思いつきで始めた物語、いわば他者の物語だったものが、ロイ自身の物語になったということ。
それ故、語りはじめた頃のロイはアレクサンドリアの興味に合わせて話を作っておりましたが、終盤になると、登場人物を殺さないでという彼女の頼みを振り切って「僕の物語」を語り続けるのでございます。仲間が1人また1人と死んでいき、最後に残された黒盗賊は、いつしか「娘」として物語の中に入り込んだアレクサンドリアを伴って総督オウディアス-----ロイから恋人を奪ったハンサムな主演俳優-----の前に立ちます。

この時ロイは、黒盗賊を殺してしまうつもりだったのでございましょう。
物語の中の黒盗賊は、カッコつけてはいても実は嘘つきのいくじなしで、恋人をオウディアスに奪われたダメな男であるばかりでなく、いたいけな「娘」を物語に深入りさせ、危険な所の中枢までつれて来てしまったエゴ走った男、まさにロイ自身なのですから。
自分のエゴのせいで無邪気なアレクサンドリアの心身を傷つけてしまったロイは自己嫌悪のどん底に陥っています。
現実の自殺には失敗したものの、いや失敗したからこそ、せめて自分の分身である黒盗賊にとびきり惨めで、ぶざまな死を与えるつもりだったのでございましょう。そしてこの時点ではやっぱりまだ自殺を決行するつもりだったのかもしれません。
オウディアスにボコボコに殴られた黒盗賊はなすすべもなく水に沈んで行きます。
鉄橋からはるか下の川へと落下して半身不随になったロイのように。そして絶望の淵に沈んで行くロイの心のように。
分身を殺そうとするロイに必死で抗議するアレクサンドリア。
物語を介して築かれて来た2人の関係が、この時はじめてはっきりと言葉で表現されます。

--盗賊を殺さないで。娘が悲しむわ
--2人は親子じゃない
--でも彼を愛してるのに
--これは僕の物語だ
--2人のよ

ロイはほとんど流すようにしか聞いていなかったことでございますが、アレクサンドリアはアメリカに移住して来る以前、馬泥棒によって父を殺され、家を焼かれるという辛い体験をしております。彼女はロイの物語をただお話として楽しむだけでなく、語り部ロイと黒盗賊を通じて亡き父に会っていたのでございます。即ちロイ/黒盗賊の死はアレクサンドリアにとって、愛する父の二度目の死を意味するのでございます。



これまでアレクサンドリアの流す涙にも、彼女の喪失体験にも全く関心を寄せずにいたロイ。医師や俳優仲間の励ましにも耳を貸さず、自分の不幸ばかりを拡大して見ていたロイは、どんなにさとされても自らの視野の狭さに気付くことがございませんでした。いつしか自分の物語/人生にアレクサンドリアを深く巻き込み、彼女にとってかけがえのない存在になっていることにも気付かきませんでした。物語を仲立ちとした象徴的な会話によってようやくロイは、彼の物語-----彼の人生と死と喪失の象徴-----が決して彼一人のものではないことに気付かされるのでございます。愛する人を失うという傷みが、彼だけに課された重荷ではないということにも。

もしもロイが他人のことなど全く意に介さず、どこまで行っても自分しか見えない人物であったとしたら、「物語」はここで終わりを迎えていたことでございましょう。
幸い、そうはなりませんでした。
あわや溺死とも思われた黒盗賊は水底から猛然と立ち上がり、オウディアスの顔に正面からパンチをお見舞いします。
たった一発、それで充分。「愛と復讐の壮大な叙事詩」の幕切れにしてはいやにアッサリとしておりますが、「復讐」という名の、自分の受けた傷に拘泥する行為はもはやロイの物語のテーマではないのでございます。今やロイにとって大事なことは、彼自身が(この時点では心理的に)自分の力で立ち上がり、彼を愛する娘/アレクサンドリアを安心させてやることでございます。
この直後、ハートのペンダントを投げ捨てるシーンは、ロイの物語で初めて「落下」が肯定的なイメージを持って語られた場面でございます。この時ロイは失った恋人への未練を、そしておそらく、自殺によって恋人と彼女を奪った俳優に復讐してやろうといういじけた心も、すっぱりと投げ捨てることができたのでございましょう。

物語ること、物語を共有することによっていわば「自分の足で立つ」心的な力を取り戻したロイ。のちに彼が身体的にも回復したことが、オレンジ農園のアレクサンドリアによって語られます。
アレクサンドリアはもうロイに会うことはございませんが、映画のスクリーンを通して彼を発見します。

ワタクシは初め、この作品の舞台が映画草創期である1915年のアメリカに設定されている意味がいまいち納得できませんでした。物語ることの双方向性とその力を表現するのがテーマなら、わざわざ時代を100年近くも昔に設定する必要はないと思ったからでございます。ラストシーンに至ってようやく分かったのでございますが、本作は語りと映像によって構成されたファンタジー、即ち映画というものへの讃歌でもあったのでございます。

アレクサンドリアはロイの語るファンタジーの中に父や身近な人々の姿を見いだしたように、映画というファンタジーの中にロイの姿を見いだします。ロイを見分ける記号、それは誰も真似できないようなすごいスタントをこなしていること。走り、飛び、何よりも、「落ちる」こと!
私達が映画という素敵な嘘においてスーパーマンやバットマンやブッチとサンダンスといったヒーローに出会うのと同様、アレクサンドリアはスクリーン上で、ロイという彼女だけのヒーローと出会っております。時計からぶら下がるロイドも給水塔から落っこちるキートンも、アレクサンドリアにとってはロイ・ザ・ヒーローなのでございます。

めくるめく映像美によって落下を描いて来たこの作品の最後を締めくくるのは、壮麗な宮殿でも息をのむ絶景でもなく、白黒サイレント映画を飾った数々のスタントシーン。何度も繰り返された落下のイメージが、まさか『恋愛三代記』(この邦題なんとかならないものか)の、両手で投げキッスをしながら落ちて行くキートンにつながるとは思ってもみませんでしたが、嬉しい驚きでございました。
私達が人生を投影し、泣き、笑い、時には生きる力さえ貰う「物語」への愛とリスペクトが詰まった本作。「映像美だけの作品」と称されるのはあまりにも勿体ないことでございます。監督は私財を投じて制作なさったということでございますので、しっかり資金が回収されて次回作へのはずみともなってほしいものと、心から願わずにはいられません。