のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『川端康成と東山魁夷』展1

2008-02-06 | 展覧会
20歳も過ぎてからようやく川端康成を読もうと思い立ったきっかけは
ほとんど名前と『雪国』くらいしか知らなかったこの文豪が
たいへん美しい姿をしていることに気付いたためであり
それと同時に、ノーベル賞受賞の数年後に
ガス自殺によって生涯を閉じたということを知ったためでございました。
あのような姿の人が自殺をするということが、理解できませんでした。


『川端康成と東山魁夷 ---響き合う美の世界---』へ行ってまいりました。





日頃行き慣れた展覧会とはちと違った趣があり、そういう点でも興味深いものでございました。
日頃行き慣れた展覧会とはどういうものかと申しますと、鑑賞者であるのろは会場に足を踏み入れると共に
あるジャンルや、ある芸術家や、ある文化圏の形成する「◯◯ワールド」にすぽっと入り込み
その中で展示品と一対一で対峙する、いわば「展示品 対 のろ」の場でございます。
しかし本展で展示されている作品や骨董品と対峙しているのは
のろである以前に、川端康成の鷹の眼であり、またこの文豪と同じく透徹した美意識で
自然と自らの作品を見つめる東山魁夷の眼差しでございます。
のろは彼らが「美しいもの」と向き合う姿を横から眺めている、という心地でございました。

いいものがあると、お金が無くてもポンと買ってしまったという文豪。
2006年に長野で開催された『川端康成の眼力』展には、仏像、埴輪、水墨画、茶道具、抽象画、
ロダンにルノアールに古賀春江に東山魁夷などなど総勢約170点に及ぶ書画骨董が展示されたとのこと。
今回はあくまでも東山魁夷との交友を軸にした展覧会でございますので
東山魁夷作品以外の川端コレクションは、そうたくさんはございませんでした。

しかし東山作品と他の美術品を並べ見ることで、それらの間に通底する精神性を感じることができます。
それは一方では、存在しているものを慈しみ、賞賛し、
自ずから高みへ高みへと昇っていくような、澄明でひらけた精神であり
もう一方では目の前に見えているだけのものには飽き足らず、深みへ深みへと降りて行く
求道者のように孤独な厳しい精神でございます。

池大雅のようにひたすら屈託のないものも愛した川端康成ではございますが
その作品世界を視野に入れつつ彼のコレクションを概括するならば
この文豪の美意識を貫いているものが、単純にきれいなもの、可愛らしいものへの視線ではなく
暗さ、悲しさ、何かいい知れぬどろどろとしたもの、
そしてそれらを突き抜けた所にある明るさや静謐、存在への肯定であることは
おのずから明らかでございます。

そのような視線で見たからこそ、美しい色彩の親しみやすい風景画の中にも
「表には現はれていない、奥にひそめて出しつつしんだ、東山さんのデモオニッシュな内面、精神の苦悩、動揺を通じての寂福、敬虔」
を感じ、かつそれを愛したのでございましょう。


次回に続きます。