のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『自然学 ~来るべき美学のために~』

2012-09-13 | 展覧会
考えすぎるのがいけないのか、考えなさすぎるのがいけないのか。

それはさておき

滋賀県立近代美術館で開催中の自然学|SHIZENGAKU ~来るべき美学のために~ へ行ってまいりました。
こちらで出品作家の概要を見ることができます。

滋賀県美、成安造形大学、そしてロンドン大学ゴールドスミスカレッジとのコラボである本展、成安造形大学の学長さんによると「地球環境がますます深刻化する中で、人間存在の基盤である自然と人間の関係をあらためて問い直し、『芸術』におけるグローバルなテーマとして『自然』を語ることで新しい時代の構築をめざす」プロジェクトの一環ということでございます。
大規模とは言えないものの、そのコンセプトにおいても、また単なる美術展ではなく、学者や大学を巻き込んだ多角的なプロジェクトの一部という点でも、意義深い展覧会でございます。

で。
そこでワタクシが思ったのは、言葉のことでございます。
人間と「自然」の関係を表す言葉の陳腐さを、つくづく呪わしく思ったわけです。
例えば、「自然を守る」「地球を守る」という言葉のおかしさ。簡潔で単純で分かりやすくて、唱えるとちょっといい気分になる、つまりスローガンとしては悪くないものであるために(あるいは、これ以上にうまい表現が見当たらないために)使われている言い回しではございましょうが、「守る」も何も、そもそも私たちは「自然」や「地球」がなかったら生きられないではございませんか。逆に「自然」や「地球」の方では、人間がいなくたって何の問題もなくやっていけるわけです。「自然」も「地球」も庇護の対象ではなく、むしろ私たちが全面的に依って立つものであり、それなしではいられないものであるはずなのに、便宜的に「守る」という言葉を使わざるをえない、そのもどかしさ。

展覧会や作品を批判しているのではございません。ただ、その場で表現されていることを言葉にしようとした時の、ものすごいちぢみっぷり、色あせっぷりに、我ながらがっかりしてしまったわけです。もちろんこれは受け手であるワタクシの感受性の低さ、語彙の乏しさ、そして表現力のなさに負う所もたいへん大きいのであって、ひとえに言葉の陳腐さのせいだけではないのではございますが。

というわけで個々の作品について駄弁を弄することは控えて、とりわけ印象に残ったアーティストをご紹介するにとどめたく。

石川亮
本展では「全体-水」という作品(↑の上から1~4枚目)が再展示されておりました。琵琶湖周辺の116カ所の水源から集めた水を氷にして金属の台の上に配置し、それらがゆっくりと溶けて一カ所に集まる様子の記録映像と、実際に使われた装置を見ることができます。隣の台に林立しているのは、めいめいの取水地の名前が記された116本の小瓶。

"馬場晋作
鏡のように磨かれ、松の枝が描かれたステンレス板が壁のそこここを飾り、あるいはつり下げられ 鑑賞者の姿を取り込みながらお互いの像を映しこむ、小宇宙めいた空間が構成されておりました。


で、また言葉の問題に戻りますけれども。
「人間も自然の一部」という言葉にも、もどかしさを感じるわけです。言葉の内容自体は全くそのとおりなのではございますが、「人間」と「それ以外のもの(=自然)」という明確な線引きが前提となっており、そこにはやっぱりどこか人間のみを特別視しているような、甘ったれたニュアンスがありはしないでしょうか。
そうはいっても人間である以上は、結局人間視点でものを考えざるをえないのであって...
単に言葉の問題なのかもしれませんけれども、今までの野放図な人間中心主義とも、人間を地球に巣くう害虫のように捉える極端な(それにより、かえって「自然」という概念を矮小化している)「自然保護」思想とも別の考え方を促すような、新たな言語表現が現れないものかと思います。

例えば
自然という名の<非-場(ユートピア)>への回帰や全自然との一致を目指すのではなく、極めて具体的・直接的な<喜び>の組織化を個別的な現場から行うプロセスの中で、活動力の増大を図ること。その中で、自己言及的なプロセスが始動するとき、すなわち自己原因としての、自己差異化としてのプロセスが現出するとき、その時にこそ私たちは真の意味で自然を生きるのであり、自然と一致するのではなく、自然を構成する、つまり新たな自然を創り出すことになる。私たちが活動する以前の状態も活動したあとの状態も自然であることには変わりはないからである。自己の本性と一致するものと私たちがより多く結びつくにつれ、私たちの活動力は増し、自己原因としての自然は新たな自然を形作る。したがってそこでは、私たちの活動力-----これはスピノザによればつまるところ、思惟の能力、身体の能力である-----を増大させるものである限りにおいて、あらゆるテクノロジーが援用されることになるだろう。自然はその時、超越的でも外化された「もの」であることも止め、真に内在的な私たち自身の生の組織化における過程(プロセス)そのものとなるのである。
浅野俊哉 『スピノザ 共同性のポリティクス』2006 第6章 <自然>の脱構築 p.159

...といった思想を簡潔に表現できる言葉が、生まれてこないだろうかと。
思うに、近代以降の人間中心主義ではもはや立ち行かない所まで迫りつつあるにも関わらず、そのことに気がついてからほんの数十年しか経っていないために、まだ言語表現が追いついていないのかもしれません。
歴史のある時点で「精神病」という言葉と概念が生まれて、それまでは「狂気」という言葉と概念で捉えられていたものを「ケアすべき疾患」へと転換していったように、あるいは、もともとは「大地」という意味しか持たなかった「EARTH」という語が、いつからか「地球」という天体と概念をも表すようになったように、これからの時代にふさわしい人間観・自然観を表現する新しい言葉と概念が、今生み出されつつあるのかもしれません。

本展はまさに、そうした新しい概念・言葉・表現そして人間/自然観を模索する試みと申せましょう。冒頭に述べましたとおり、その点でたいへん意義深いものでございます。
ただ、アートファン以外には「よくわからない現代美術」として敬遠されしまいそうな作品が少なくなかったのも事実であり(平日とはいえ、二時間半ほどの間に遭遇したお客さんはせいぜい5人ほど)、それもまたもどかしいことではございました。
説明的ならいいというものではございませんが、なにごとかを「表現」するだけではなく、人を惹き付けて「伝える」「訴える」力というのも大事だよなあ、と思った次第。
これまた受け手の問題でもあるのかもしれませんが。


ここで言及されている<喜び>とはスピノザ独特の語法のひとつであって、「具体的・直接的」といっても単なる快楽を意味するものではありません。スピノザにおける「喜び」および「悲しみ」は、心身の活動力の増加および減少を示す情動であり、同書p.168から引用するならば「スピノザの言う喜びは、自らの本性に沿って<存在する(ある)>ということ自体に伴う喜びであって、存在に付加される<所有(持つこと)>や<消費>に伴う高揚感とはまったく別」のものです。
また「自己の本性と一致するもの」とは要するに「喜び」を感じさせるもの=心身の活動能力を増大させるもののことであり、ドゥルーズはそのとっても分かりやすい例として「食べ物、愛する者、友など」を挙げております。(『スピノザ 実践の哲学』 2002 平凡社ライブラリー p.210
自己の喜びを追求する、といった時、あらゆる利害が衝突し合う食い合いの世界を想像することもできますし、『エチカ』にはゴリゴリの人間中心主義的な言説として読める一文もあることはあるのですが、むしろ「<生命>をその他の<生命>との<関わり>の中で肯定していく」(浅野俊哉 前掲書 p.288)思想として捉えることが、現代的かつ正当な読み方ではないかと思うわけです。


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