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『ドストエフスキーと愛に生きる』

2014-04-11 | 映画
去年の『世界一美しい本をつくる男』に続いて、いささかミスリーディングな邦題がつけられたドイツ発ドキュメンタリー。原題が『Die Frau mit den fünf Elefanten(5頭の象と生きる女)』なので、分かり易さを優先してドストエフスキー云々という邦題になったのでしょうけれども、このタイトルから期待されるほどにはドストエフスキーへの言及はございませんでした。
とはいえ、作品自体はよいものでございました。教科書や年表に書かれることのない、こうした「小さな歴史/草の根の歴史」を発掘し記録していくこと自体、意義深いことでございます。

映画『ドストエフスキーと愛に生きる』公式サイト


独り住まいで古風な暮らしを営みながら、現役の翻訳家として活動するスヴェトラーナ・ガイヤーさん、84歳。
ウクライナに生まれ、ナチスドイツとスターリン下ソ連の支配を経験した彼女は「私は人生に借りがある」と語り、買い物からアイロンがけまで日常の家事を丁寧にこなすかたわら、生涯の仕事であるロシア文学の翻訳を続けています。
映画はガイヤーさんの日常や、故郷ウクライナへの65年ぶりの旅を淡々と追いつつ、激動と呼ぶにふさわしい時代を経て来たその半生を、彼女自身の語りによって振り返ります。

大粛清を受け、投獄・拷問された父親のこと。ドイツ軍がキエフにやって来た時、市民がスターリンからの解放者として独軍を歓迎したこと。彼女自身、「ヒトラーのユダヤ人嫌いはただの宣伝だと思っていた」こと。集めたユダヤ人たち-----彼女の友人とその母親を含む-----を殺すため何日も鳴り止まなかったという銃声の記憶。「非アーリア人種」である彼女に温情をかけたために、東部戦線送りにされたドイツ人官吏のこと。
大文字の歴史からはこぼれ落ちてしまう、個人としての歴史の語り、そこには単なる記録や数字に還元され得ない、体験者の証言ならではの重みがございます。

一方、日常をめぐるガイヤーさんの語りはウィットに富んでおり、聞くだに楽しいものでございます。ドストエフスキーの5大長編を指した「5頭の象」という例えも、ガイヤーさん自身の言葉でございます。
またごく若い時に始まり、文字通り彼女の生きる糧となった、翻訳という仕事についての語りも興味深いものでございました。ある言語を別の言語に翻訳するとはどういうことなのか。人は何故翻訳をするのか。その言語独特の響きとニュアンスを持った、翻訳不可能な言葉のこと。そしてレース編みの精緻さに例えられる、実際の翻訳作業の様子。どのようなレベルであれ他言語の翻訳という作業を試みたことのある人なら、頷きかつ襟を正さずにはいられない至言の数々でございました。

というわけで、色々な面において深みのあるドキュメンタリー映画でございましたが、タイトル以外の情報にあえて触れずに足を運んだワタクシとしては、やっぱりもうすこしドストエフスキーの話が聞きたかったなあというのが正直な所でございます。


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