のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

3年経ち

2014-03-11 | Weblog
3月11日でございました。

東京新聞から、胸塞がれる記事を。
原発からたった12kmの距離にある富岡町の自宅に留まって、そこに残された動物たちの面倒を見て来られた松村直登さんのお話です。

《あの人に迫る》 動物も悲惨だぞ 何も知らねえべ/松村直登 福島県富岡町民(東京新聞) - あきらめない、もう一つの命達!! - Yahoo!ブログ

この記事を読んで最もやるせなさを感じたのは、次のくだりです。

震災から1カ月くらい過ぎたころ、東電の本店さ行ったんだ。対応した社員に言ってやった。「家畜からペットから、みんな雨の中で餓死しちまうぞ。面倒見ねえのか」って。そしたら「東電は事故の収束に向けて一筋で頑張れと政府から言われている。動物には何もできません」ってよ。... (中略)...東電は被災者の心を何も理解してねえことが分かった。「俺はもうめちゃくちゃ被ばくしてる。死んだらおめえらに検体してやる」って言ったら、何て言ったと思う。「体は貴重な資料になるでしょうね」って。人間の心が分かってたら、そんなこと言わねえはずだ。


3年前の3月11日に起きた原発事故について、東電が一から十まで何もかも一切合切悪いのだ、と言うつもりはありません。もちろん東電には事故を起こした施設の管理者として、その安全性に関して重大な過失・過信があったと言わねばなりませんし、もちろん被害者への賠償責任もあります。
しかし事故が起きるまで、原子力発電所という施設への安全神話、あるいは安全プロパガンダを何となく信じて来た人たち、そして私自身を含めて、安全なわけないだろうと思いながらも何もして来なかった人たちにしても、潔白の身とは言えないからです。
あの事故が起きたのは即ち、あの事故の下地となった状況、つまりこの地震大国の上に原発を建設しまくったという経緯も、それを支える差別構造も、人々が素朴でふわふわとした「信仰」と無関心とによって容認して来たということに他ならないからです。1946年に伊丹万作が言ったように、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」のではないでしょうか。

「いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。」

伊丹万作 戦争責任者の問題

また、上記の東京新聞の記事に登場している東電社員ひとりを、ことさら責め立てるつもりもございません。
本店とはいえおそらくお偉いさんではなく、対応窓口担当の職員さんでしょう。発言内容そのものは全く擁護できませんし、憤りを覚えるのも確かです。しかし対応窓口というのは、自分には決定権はないのに、お偉いさんがたが決めた事柄について、彼らに代わって日々批判の矢面に立たされるという、それ自体がたいへんやるせない部署です。
この職員氏もきっと、松村さんの壮絶な言葉に対してとっさに返すべき言葉が見つからず、せめてそのお志は無駄にはなりますまい、という意を伝えようと、苦し紛れにこのような文句を口走ってしまったのではないでしょうか。
少なくとも、そう信じたい所です。

では、上記のくだりの何がやるせなかったのか。

「俺はもうめちゃくちゃ被ばくしてる。死んだらおめえらに検体してやる」
「体は貴重な資料になるでしょうね」

こんなやりとりは、3年前まではディストピア系SFの中だけのものだと思っていました。または「25年前のソビエト連邦」という、私にとってはSFと同じくらい遥か遠い世界に属していたものでした。それが今や現実に、この社会において交わされている。
そしてそんな現実を尻目に、こともあろうに原発を今まで推進して来た為政政党の党員が「原発事故で死んだ人はいない」と言い放ち、総理大臣はスポーツイベント誘致のために世界に向けて平気で「アンダーコントロール」という嘘をついていること。
さらにはこのろくでもない為政者連中が、松村さんと東電の職員氏が交わした腹立たしくも悲しいやりとりや、警戒区域に取り残されて飢えと乾きの中で死んで行った動物たち、住まいを、田畑を、漁場を、なりわいを失った住民の皆さん、子供たちを被爆から守ろうとする親御さんたちの苦悩や葛藤、離ればなれにならざるをえなかった友達や家族、それらすべての原因となった施設(言うまでもなく、地震と津波だけならこんなことにはならなかった)を、事故原因の充分な検証もないまま再び稼働させ、選挙前に掲げた「原子力に依存しなくてもよい経済・社会構造の確立」という公約を自ら蹴飛ばして「重要なベース電源」として押し頂き、果ては恥知らずにも「世界一安全性」と称して他国に売りつけようとしている現状が、あまりのもやるせないのです。

上に挙げた数々の悲劇は、いつであれ、どこであれ、二度と決して繰り返されてはならないものです。そのためには、その原因となった原発という技術ならびに施設を、推進または黙認してきた私たちの過去を直視し、反省しないことには始まりませんし、何より私たちみんなの過ちの犠牲となった被災地や被災者のことを忘れたり、無関心でいてはならないはずです。

ところが現政権の「死んでないんだからいいだろう」、「オリンピックが来るんだからいいだろう」と言わんばかりの姿勢と方向性、これはいったい何なのでしょうか。厚顔無恥な開き直りと、被災地・被災者への無関心の現れ以外の、いったい何でしょうか。

無関心といえば、昨年 11月に福島で開催された、いわゆる特定秘密保護法に関する公聴会のことも思い出されます。
公聴会に参加した意見陳述人が全員反対したにも関わらず、その翌日に、全く何事もなかったかのように採決され、衆議院を通過しました。
はなから耳を傾けるつもりがないのなら、何のための”公聴会”だったのか。

私自身、そもそも根が薄情な人間ですから、被災地のことを我が身に降り掛かった場合ような関心を持って注視してきたわけではありません。その私からしても、今の為政者たちの無関心ぶりはあまりに酷いのではないかと思わざるを得ないのです。

震災・原発事故から3年 深まる遺族の苦悩 、無念ー「せめて原発事故さえ無ければ」(志葉玲) - 個人 - Yahoo!ニュース

沢山の被害者がいるのに、加害者がいないのはおかしなことです。これでも罪を問えないのですか? - ウィンザー通信

村野瀬玲奈の秘書課広報室 |国会答弁で2020年東京オリンピック誘致演説の嘘を悪びれもせずに説明する安倍晋三首相


薄情な上に人嫌いな私ではありますが、先日「バイバイ原発3.8きょうと」というイベントに参加して来ました。
イベントの中心的催しとして、金子勝さんの講演がありました。

バイバイ原発3・8きょうと(5) 経済学者の金子勝さん


「(今の政策は)福島の人々の避難や賠償を最優先にするべきなのに、東電の救済に税金を使っている。既に’死んでいる’東電を生き残らせるために膨大なお金を注いで、福島の除染や賠償を節約しようとしている」
「東電をまず解体・売却し、貸し手(・株主)は債権放棄をするべき。新株や旧東電の資産売却によって被災者救済の為の資金を確保すべき」

なぜ、そうならないのか。
なぜ、今の為政者・与党は、被災地や被災者ではなく電力業界の方ばかり向いているのか。
なぜ、そんな政党の推す政治家が、都知事に選ばれるのか。

つまる所、無関心と、そこから帰結する無知とが、現状をかくあらしめているのではないでしょうか。
そうであるかぎり、いずれまたどこかで、同じことがおきるのではないでしょうか。
そしてそのどこかとは、貴方の今いる場所の近隣のことかもしれないのです。

伊方原発,玄海原発,川内原発,九州電力,福岡,大分,佐賀,長崎,熊本,宮崎,鹿児島,沖縄の事故、距離、地図、住所、ライブカメラ、状況、記事、本、解説


最後に。
以前にもご紹介しましたし、ネットを活用していらっしゃる皆様はもうとっくにご存知かとは思いますが、改めてIWJ(インディペンデント・ウェブ・ジャーナル)の宣伝をさせていただこうと思います。

岩上安身責任編集 ? IWJ Independent Web Journal

3年前の3月11日以前は知りもせず、関心を持つこともなかったことのひとつに、マスメディアがいかにスポンサーによって縛られているか、という問題がありました。


『原発広告』(亜紀書房)著者 本間龍さんインタビュー |今週の原発|通販生活 


「原発安全神話をすり込むために、電力会社はこの40年で2兆4千億円もの広告費を使いました」
東日本大震災前までは、当たり前のようにテレビや新聞で見かけていた「原発広告」。国民に原発の「安全神話」をすり込み、マスメディアの批判力を奪ってきた広告とはどのようにして作られたのか。大手広告代理店の営業マンを経て、著述家として活躍している本間龍さんに伺いました。


「彼ら(電力会社)の機嫌を損ねて「広告を取りやめる」と言われたら、経営に響きかねません。原発に関するネガティブなニュースは、なるべく取り上げないように、マスコミ各社は自主規制するのが当たり前でした。」

電力会社が何もかも悪いと言うつもりはないのと同様、マスメディアが何もかも悪いと言うつもりもありません。特定の組織によって金銭的に首根っこを押さえられた状態では、その組織の不利になるような報道をすることは(それがいかに倫理的に正しいことであろうとも)どだい無理な話でありましょうから。

IWJは2010年12月に発足して以来、会員による定額会費とカンパによって運営を続けて来た独立メディアです。
大企業によって財布のひもを握られた「マスコミ各社の自主規制」から自由な、こうした報道機関が保たれることは、社会が同じ悲劇と過ちを繰り返さないために必須のものであろうと私は考えます。逆に言えば、現在のような為政者、そして現在のような’公共放送’のもとで、このような独立と気概を保ったメディアがなくなった時、私たちに日々もたらされる情報とは、いったいどのようなものになるのかと、考えるだに恐ろしいのです。

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