のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ジョン・メリック いわく

2006-03-22 | Weblog
「 人は 理解できないものを 恐れます。 」

かの「エレファント・マン」、ジョン・メリック青年は
映画の中でこう語りました。



正確な場面は思い出せないのですが
醜悪な姿をした彼に対する人々のふるまい----嘲笑や好奇の視線----を、彼自身はどう思うか
について述べた言葉であったと記憶しております。

これが本当にメリック青年の言った言葉なのか、それとも脚本家の創造したセリフなのか
のろは存じません。
しかしこの言葉は、映画鑑賞当時10代であった のろの心に
他のどのセリフよりも深く刻みこまれ
その後もことあるごとに思い出されるのでございます。
とりわけ 今日のような日には。


本日は 日本人で初めてのエイズ患者が認定された日です。
1985年のことです。
初の症例が米国で報告されてから4年、当時なお、エイズは謎の死病で
HIV感染者への差別はすさまじいものだったそうでございます。
米国では感染者の通学拒否、雇用制限、生命保険からの締め出しが横行し
ハリウッドでは女優がキスシーンを拒否したり
感染が疑われる俳優のブラックリストが作られるなど、赤狩りさながらの狂騒を呈しました。
日本ではこの年、同性愛者からの献血は拒否するよう、厚生省から通達が出されました。

のろが最大限敬愛するクラウス・ノミ氏がエイズで亡くなったのは
これに先立つこと2年 1983年のことでございました。
この当時は「家族間の日常的な接触による感染の可能性」が医学会においても考えられておりました。
巷では「ゲイの癌」と呼ばれ
葬儀屋は感染者の遺体の処理を拒否しました。

多くの友人たちは感染を恐れて、ノミに触れることはおろか
入院後に見舞いに行くこともありませんでした。
見舞いに行ったわずかな友人の一人、ジョーイ・アリアスの証言によりますと
面会人はビニールの防護服を着用せねばならず、患者の身体に触れることは禁じられ、
面会後は手を洗うよう求められた ということでございます。

医学上、当時としてはやむを得ぬ処置だったのでありましょう。
しかし、決して孤独を好む人ではなかったノミが
誰にも看取られぬ孤独な死を迎えねばならなかった その責は
医学上の配慮よりもむしろ、社会に蔓延していた、得体の知れぬ病への恐れにあると申せましょう。


当時 のろは小学生でございました。
「エイズ」という単語は「わけのわからないビョーキ」を指す言葉に過ぎず
教室では子供たちばかりでなく先生までが、この病名を揶揄のための言葉として使っておりました。
「このエイズ!」という呼びかけが「このアホ!」くらいの意味合いの
軽い罵倒として 使われておりました。
のろ自身、使っておりました。


理解できないもの を
自分/自分たち から切り離し、恐怖の あるいは嘲笑の 対象とすることは
実にもって簡単なことで、わたくしたちはそうすることに
すっかり慣れきっております。
反対に
理解できないもの を
理解しようと努めること、あるいは 理解できずとも せめて
是認し、真面目な存在として受け入れること は
ものすごく面倒くさいのでございます。
自分を含めた世界を ぐるっと見るにつけ、自分/世界がこの慣習にどっぷりと浸っていることに思い至り
そこから抜け出すのはほとんど不可能なことのようにも思われるのでございます。

いや それでも
こうではない、別の存在の仕方があるはずだ
たとえ面倒くさくても、理解と是認の方向へ歩んで行くこと
その方向を、せめて指向することは できるはずだ するべきであるはずだ
と 思われるのでございます。

とりわけ 今日のような日には。


AIDS SCANDAL
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