のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『今日の芸術』(書き直し)

2006-05-27 | 
*朝UPしましたが、その後若干書き直しました*


『今日の芸術』 (岡本太郎 著 光文社 1999)を改装しました。



そもそもは1954年に、同社のカッパ・ブックスで出版されました。
序文によりますと、この文庫版は横尾忠則氏の要請で、近年再版されたものなのだとか。
横尾氏の作品も岡本氏の作品も、あんまりのろ好みではございませんが(評価しないということではなく、好みの問題です)
ブックオフをさまよっていた折にこの本が目に止まり、何となしに「これを読まねばならないのう」という気がしたので
ふらふら買ってみました。
良書でございました。

「今日の芸術はいかにあるべきか、また、なぜそうなのか」を、平易に、具体的に、かつまた明晰に、論じておられます。
50年も前に書かれた「今日」じゃあ、今はもう古びているかというと、これが全くそんなことはございません。
と申しますのも、本書の論は、その時代のみに照準を合わせたものではなく
いったい芸術とはどんなもので、社会の中でどんな役割を果たして来たものなのか、そしてこれからはどうなのか
という、より大局的な観点の中で展開されているからでございます。
非常に読み易い文章でありつつ、内容は濃くエネルギッシュです。
「解説」では赤瀬川源平氏が本書を、消化吸収のいい、スポーツ選手の食べるバナナに例えております。

「一つの時代には、一定の芸術の課題があります。(中略)われわれにはわれわれに与えられた当面の問題があり、それは当然それにふさわしい新鮮な形式によって解決されなければならないのです。」(p.64)

芸術論のみならず、ものの見方について、読者に一考せしめる本でございます。



印象的な言葉が沢山ございました。
その中の一つを裏表紙に使ってみました。

芸術は、いわば自由の実験室です。芸術の世界では、自由は、おのれの決意しだいで、今すぐ、だれにはばかることなく、なにものにも拘束されずに発揮できるのです。(p.172)

そうと分かっても、拘束から逃れることはなかなか容易ではないわけでございますがね。

見返しと同じデザインで、しおりも作ってみました。



これも再三申しております、11月の展覧会に出品いたします。
詳しくはこちらを。↓

NPO法人 書物の歴史と保存修復に関する研究会


最後に、本書の中から岡本氏御自身のエピソードをひとつ。

氏がパリとN.Y.で個展する前に、日本の講演会で
「あちらで何を得てこられるでしょうか?」と質問され
「いえ、こちらが与えに行くんです」と答えたという。

この気概、この真摯な、腹のくくりよう。
こっ れは カッコイイ。

しかし、この返事に満場の聴衆はドッと笑ったのだそうです。
うーむ。

ほら吹き男爵

2006-05-11 | 
本日は
カール・ フリードリッヒ・ヒエロニムス・フォン・ミュンヒハウゼン男爵の誕生日でございます。
そう、世に言う「ほら吹き男爵」。
どうせなら4月1日に生まれていただきたかったものですが。

これは数年前、展覧会用に制作したブックカバー。
中身は『ケストナーの「ほらふき男爵」』 池内紀訳 筑摩文庫 カラー図版、挿絵入り。



↑おもて表紙 ↓うら表紙



タイトルはこうですが、「オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」や「長靴をはいた猫」といった
ポピュラーなお話全6篇で構成されており、ミュンヒハウゼンの話はそれほど多くありません。
全て『飛ぶ教室』などで有名なドイツの児童文学者、エーリッヒ・ケストナーが再話したものです。



ゴム版一色刷りしたものに、PCで彩色しました。
背表紙にはお月さん。



既に発表した作品ではありますが、気に入っておりますので
4月15日の記事でご紹介した展覧会にも出品するつもりでございます。


改装エチカ

2006-04-15 | 
『エチカ』(岩波文庫)を改装しました。
上下巻に分かれていたものを一冊にして、訳注は最後にまとめました。
おもて表紙にレンズを埋め込みました。(ええ、ベタではございますが・・・)
背表紙はアクリル板。





見返しのマーブルは墨運堂のマーブリングセットで作りました。








11月、大阪での展覧会に出品する予定でございます。

展覧会の日程 および文庫本の改装方法についてはこちらをご覧下さい。

NPO法人 書物の歴史と保存修復に関する研究会

啄木忌

2006-04-13 | 
誰が見ても われをなつかしくなるごとき 長き手紙を書きたき夕(ゆうべ)


本日は 石川啄木の命日です。

というわけで、10年ほど前に購入した『新編 啄木歌集』(岩波文庫)を久しぶりにひも解きました。
特に気に入った首(しゅ)にはマル印なんぞがつけてあり
しおり代わりに挟んでいた、ギャラリーのフライヤーが出て来たり。
ああのろよ、あの頃君は若かった 
いやいやむしろガキだった 
いやいやそれなら今もだろ と ページを繰りつつ、ひとりツッコミのひととき。

その中で、のろには珍しく、何事かを書き込んでいる箇所がございました。
オヤと思って見ますと

よく笑う若き男の 死にたらば すこしはこの世のさびしくもなれ

という一首の下に、鉛筆でこうひと言

いいね。 

・・・のろよ、昔も今もうらぶれておるな。
いいさ。鬱屈街道まっしぐら~。
♪ 回り道 分かれ道 どの道オイラは地獄行き ♪
(『テアトル蟻地獄』 By ガレージシャンソンショー)

さておき。
丁度この本を購入した頃 即ち10年ほど前に描いた啄坊の似顔絵が、これでございます。



うむ。似ておりませんね。

当時は「写真の容貌よりも、作品から受ける印象を重視スルノダ。げっそりヘロヘロの幽霊顔に描くノダ」
などと思っておりましたが

似顔絵というものは そう、 似ててナンボ でございます。

で、本日描きましたのはこれ。まし と言えるていどにはましになったと思うのですが。
 




何かひとつ 不思議を示し 人みなのおどろくひまに 消えむと思ふ

1912年、肺結核で死去。享年27歳。
いわゆる「夭折の天才」でございます。
文庫本の表紙には「歌壇に新風を吹き込んだ・・・永遠の青春の賛歌」 とあります。
これを読んだとき、正直、のろは思いました。
この人の作品、「青春」と呼ぶにはあまりにも 生 活 苦 にまみれていないか?
しかしこれは、作品の題材と、その表現しているものとを混同した見方でございました。
生活苦にまみれながらも、あたかも思春期のような
瑞々しい感性や、傷つきやすさ、やりきれなさ、自己嫌悪と背中合わせの自負心、といったものを
失わずにいたからこそ、このような作品を作り得たのでありましょう。

さりげなく言ひし言葉は さりげなく君も聴きつらむ それだけのこと

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買い来て 妻としたしむ

人がみな 同じ方角に向いて行く。 それを横よりみている心。


比較的明るめの作品をご紹介しました。
のろ好みの作品を並べますと、ものっすごく暗くなりますので・・・。


ちなみに本年は啄坊の生誕120周年にあたります。
この機会に、引っ張り出して来た歌集を
しばらく机上に置いておくことに決めたのろでございました。

DILBERT

2006-03-24 | 
本日はDilbertをご紹介。
「本」のカテゴリに入れるのもどうかとは思いましたが、コミックのカテゴリを作る予定はないので、とりあえず。

Dilbert Comic Strip Archive - Dilbert.com - The Official Dilbert Website by Scott Adams - Dilbert, Dogbert and Coworkers!

Dilbert、ご存知の方も多かろうと存じます。
世界65ヶ国25の言語2000紙で連載されているという、アメリカ発の日刊3コマ漫画です。
主人公は冴えないコンピュータエンジニアのDilbert。
周りを固めるのは
仕事のことを全く分かっていないボスや、
ひたすらサボることだけを考えている同僚、
IQは高いけどアホな研修生(←のろはこいつが大好きです)、
邪悪な人事部長のCatbert()、
Dilbertの飼い犬であり、世界征服を企むビジネスコンサルタントであるDogbertなど。
ちなみに公式サイトの解説によるとDogbertは「遺伝学的には犬だが、決して「人間の友」ではない」という輩です。

彼らが繰り広げる、はなはだけだるい会社生活は、シニカルに ユーモラスに かつ
「身近にあるある、こんなこと!」「身近にいるいる、こんな奴!」
と思わず膝を打つリアリティを滲ませて描かれ、
世界中のビジネスマンから笑いと共感をもって迎えられているのでございます。

のろが購読しております英和新聞「週刊ST」には対訳つきでDilbertが掲載されておりまして
始めはその乾いたユーモアがどうもピンと来なかったのろではございましたが
今ではすっかり病付きでございます。
どういうユーモアかと申しますと、こういうものです。訳文は「週刊ST」に準じます。
(全部載せると著作権に抵触するやもしれませんので、2コマ目はセリフのみにてお届けします。
著作権については若干調べはしたものの、作品を 非営利目的 で引用する場合に、
どういうケースが著作権侵害にあたるのか、またあたらないのか、いまいち判然としません)

向かって左がDilbert、真ん中がBoss(部長 と訳しています)、右が研修生のAsok君。



部長「この『事後分析』プロジェクトは、一人ひとりが失敗の要因を正直に認めてこそ、効果が上がるんだ」


2コマ目

研修生(真顔で)
「リーダーである部長のとんでもない愚行のおかげで
僕たちの本来の能力が抑圧され、やる気と集中力が失せたんです」




部長「『正直に』というのは、ここにいない誰かを責めろという意味だ」
研修生「ほら!部長、またやってるじゃないですか!」

Copyright:2005 United Feature Syndicate,Inc

はい、こんな感じでございます。

また
確か去年のことでしたか、公式サイトで「”Dilbert”に出て来そうなネタ大賞」というようなものを募集しておりまして
みごと大賞に輝いたのは次のようなネタでございました。

全社員に通達:明日から、IDカード非所持者は当社ビル内への立ち入りが禁じられる。
カード作成のための写真撮影は、来週の水曜日に行う。
カードは、2週間後に支給される。



・・・・・
先にカード作っとけぇ!!!

って話でございますね。

うーむ
どうも最近 
このコミックが 非 常 ~ に 身 近 に感じられるのでございますよ。
ええ。

ザムザ君

2006-03-06 | 
おりしも 啓蟄でございますから
虫になった男の話でもいたしましょう。

初めて『変身』を読んだときには、全くガキンチョでございましたから
ただただ「な ん ちゅう 暗い話じゃ」と 思ったものでございました。
しかし
のろもそこそこ歳をとり、自分が存在していることを
アタリマエと思って享受することができなくなって参りまして
またスティーヴン・バーコフ↓や
   berkoff hot news archive 2003
   Steven Berkoff sales page
   Steven Berkoff sales page

ロバート・クラム↓に
Amazon.co.jp%uFF1AR. Crumb?'s Kafka: %u6D0B%u66F8



カフカ作品はブラックコメディーである ということを教えられたのちは
この作品を、自らに引き寄せて、いたって楽しく読むことができるようになっております。

のろは全くのところ
虫男ザムザ君にそっくりでございます。
我が友ザムザ君。笑

もちろん彼は、真面目で 家族思いの 心優しい男ですから
その点では、のろとはちっ とも似てやしませんけれどもね。

しかしのろが思いますに
ザムザ君がどんなに真面目でいいヤツであろうと
彼は、自分が何の役にも立たぬ醜い虫であると判明した時点で
この世を(あるいは家族のもとを)去るべきだったのでございますよ。
彼の妹が言うように、「人間があんな生き物と一緒に暮らせるわけがない」のは明白でございますからね。
家族は、彼の存在をしかたなしに我慢してやり
彼自身もそのこと(我慢してもらっている存在であること)を分かっていたにもかかわらず
その状況に甘えて、どこへも行けず 死にもせず ただ存在し続けたのです。

あわれなザムザ君!
彼の悲劇は、 ある日突然、虫になってた ということではなく
家族が、巨大な虫になった彼を 生理的に嫌悪した(これは人間として全く当然の反応) ということでもなく
自分自身に手を下すことができなかった ということでございますよ。

いなくなった方がいい、ということが分かっているくせに
いなくなることができない、ザムザ君。
あまつさえ------これはもはや喜劇でございますが-------自分がまだ、何かの役に立てる、と思っている!

結局のところ、彼は状況をまずい方向へと向かわせる という役にしか、立たないのでございますがね。
何か しよう というのが、そもそも間違いです。
いない方がいい存在なのですから。

Alas!
愚かなザムザ君!
君は 存在を みんなに 我慢してもらっている だけなのに。
我慢してもらっている という状況に 甘えているんだ。
愚かなザムザ君!
実にまったくのろそっくりだね。
大笑い。

『ドイツ語とドイツ人気質』2

2006-02-17 | 
今朝ラジオをつけますと
トリノオリンピック 男子フィギュアスケートの模様を中継しておりました。
カナダの選手がクラシックの楽曲をバックに演技しております。

耳をすませば おお、この曲は 
サン・サーンスのオペラ『サムソンとデリラ』より、ヒロイン・デリラの唄うアリア
「あなたの声に私の心は開く」ではございませんか。

つまりその クラウス・ノミの十八番の曲ではございませんか。
いつもライヴの最後に歌っていたという、『ノミ・ソング』でも映像が使われていた、あの曲ではございませんか!
グッドタイミング、のろ!
そう、これを歌っているときの、ヤツの顔といったら!

Ah! reponds a ma tendresse!
Verse-moi,verse-moi l'ivresse!
Reponds a ma tendre~sse~~! (歓声)のーみー!(歓声)


・・・・・・・・・

>>>>>修理中<<<<<<



失礼いたしました。
暴走いたしました。
そうではないのです本題は。

昨日ご紹介した『ドイツ語とドイツ人気質』
本当に面白く興味深く読ませて頂いたのですが
一点だけ、のろとしては、異を唱えたい点がございました。

即ち、筆者が、日本人が何かにつけ「ごめんなさい、すみません」と言うことを指して
「日本人的な心のやさしさ」と言い、また
「ドイツ人ばかりでなく、欧米人一般にこういうやさしい心はないと思う」とも言っておられる
この点については、のろは首を傾げざるを得ないのでございます。

「ごめんなさい」を言う、言わない は、優しい、優しくない という問題ではなく
社会生活を円滑に営んでいくための、慣習の違い に過ぎぬのではないかと
のろは思うのでございます。

日本では、「まずは謝る」ということが当事者同士の関係を良くし、ひいてはものごとの解決に資する、
という枠組みがあるのに対して
欧米では、「まず互いの正当性/非正当性を明らかにする」ということが、互いの関係とものごとのスムーズな解決に資する、
という、異なった枠組みがある、というだけのことであって
謝らない=優しくないということではないのではないかと。

そも
日本人が一日に幾度となく口にする「すみません、ごめんなさい、失礼します」といった言葉のうち
本当に心から、相手のことをおもんぱかって、つまり「優しい心」で発せられるものが
一体いかほどあるというのでしょう。
ほとんど皆無ではないだろうかとのろは思うのですが
それはのろの邪悪な心を他人様に敷衍しすぎでありましょうか


欧米文化圏の人から見たらば、このような日本の慣行は
ちっともすまぬと思っていないのに「すまない」を連発し、それでもってものごとを
なんとなく解決してしまおうとする不誠実な態度とも思えるのではないでしょうか。
(↑別に 断罪しているわけではございませんで、こういう見方も し得るよ、ということを申したいのでございますよ)

鄭重/礼譲 ということについて
スピノザが 例の如く この上なく冷徹に 定義をなさっているので、ちとご紹介いたしますと。

鄭重あるいは礼譲とは、人々に気に入ることをなし、
人々に気に入られぬことを控えようとする欲望である
(エチカ第3部 定義43)

ああ さすがはお師匠様。抜けば玉散る氷の刃。取り付くシマもございません。

スピノザの言う 欲望 とは、すべてのものに備わっている、自己保存を指向する衝動 が意識化したもの の意です。

繰り返しになりますが
鄭重/礼譲とは、自己保存に資するからこそ、とられる態度であります。
ある文化圏の人々が「すみません」を頻繁に口にする ということは
「謝ることが、謝った当人の自己保存に資する、という文化的土壌がある」
ということを示しているに過ぎないのであって
「謝る」イコール その人々が優しい心の持ち主である、ということを
示しているわけではないのであります。
スピノザスタンスで言えば、ですよ。そしてのろはスピノザスタンスで言っております。

そういうわけで
ことあるごとに「すみません」と言うことを、
「日本人的な心のやさしさ」と評される筆者のご意見には
のろは どうも承服しかねるのでございました。



『ドイツ語とドイツ人気質』

2006-02-16 | 
『ドイツ語とドイツ人気質』小塩 節 1988 講談社学術文庫 を読了。

独文学者である筆者は、異文化理解の手がかりを
自身が経験されたエピソードを交え、「普段のドイツ語/ドイツ人ってこんなふう」
という親しみやすい形で語っています。

たいへん読みやすい文章で、遅読なのろもスイスイと快調に読み進めることができました。
数々のエピソードは、微笑ましいもの、笑ってしまうもの、また身の引き締まる思いのするもの、それぞれが
長年ドイツ人やドイツ文学と深く関わって来た筆者ならではの説得力を持っております。

中でものろ好みだったのは、筆者がNHKのドイツ語講座を担当していらした時のエピソードです。

筆者はある時、番組の中で、ドイツ人レギュラーゲストによる
ゲーテの『野バラ』朗読を企画します。
ところが、当のドイツ人ゲストWさんは、この提案を「ナイン(No)」の一言で、にべもなく断ります。
筆者が、なぜ朗読が嫌なのかと問いただすと
W氏、「第一にこれこれ、第二にこれこれ」と、いかにもドイツ人らしくひとつひとつ理由を挙げて
この企画がいかに馬鹿げているかを力説します。

曰く「詩を読んだところで、ドイツ語会話はうまくならない」
曰く「この詩の中で使われている語彙は古すぎる」
曰く「詩の内容も古すぎ、非現実的である」
曰く「朗読の後で歌まで歌うとは、何たることか。
   私たちは言葉によるコミュニケーションを学んでいるのであって、歌なぞ歌っているヒマはないはずだ」

しかし、筆者も負けずに頑固です。

「この詩の一節を 読 む こ と に し ま す!」
そう、ドイツ人に言うことを聞かせる特効薬、即ち業務命令という手段に訴えたのです。


スタジオに入ったWさんは
「悲しげな顔をしながら、抑揚乏しく『野バラ』の第一節を朗読し」
歌に至っては、唇を動かすだけで、声は出さずじまい。
その後も番組内でドイツ民謡などを歌うたびに「実に悲しげな顔」をなさっていたそうです。

嗚呼、ドイツ人。
噂に違わず頑固でございますねえ。
筆者も もはやアキレタ という態で、この頑固さを「あっぱれというほかはない」と評しています。

頑固というだけでなく、ドイツにおいては一事が万事徹底というキーワードをもって行われるようです。

「・・・だからドイツ人の学者や技術者が「入門書」を書くとなると千ページぐらいの「ハンドブック」を
 三冊ぐらい書かないと気が済まない。ドイツ人がハンドブックと言ったら、両手でやっと持ち上げられるぐらいの
 重さということになる。何でも、知っていることはみな書いてしまう。・・・」(p.26)

もちろんある程度の誇張や偏りはあるでしょうから、本書の内容全てをを鵜呑みにはできませんが
笑って鵜呑みしたくなるほどに「ドイツ=マジメ、頑固、徹底」のイメージにぴったりでございますね。
怠け者で軟弱者で超どんぶり勘定人間の のろとしては、こんな「ドイツ人気質」に対して
全く実に 畏敬の念を禁じ得ないのでございますよ。





ドスト話 再び

2006-02-09 | 
本日  ドストエフスキーの命日です。
そら先々週の話だろって。
そうなんでございますが、それは今の暦で見ればの話。
帝政時代の暦では今日、2月9日が命日なんでございますよ。

というわけで、1月28日の続き

煉獄での浄罪を終えて、天国の入り口にやって来たドストさんの図。




デンマークみたいに問題になったらどうしませう。
と 心配するほど多くの人は見てないと思いますが
許せんとお思いの方がいらっしたらコメントに書き込んでくださいませ。
ケンカする気はございませんし、他人様を不快にさせる意図も毛頭ございません。
お詫びの上、イラストは削除いたします。

『わが友マキアヴェッリ』2

2006-02-07 | 
2/5の続きです。

「端役」たちまでもが、血肉を持った存在として生き生きと感じられる
と、申しました。
「主役」マキアヴェッリに至ってはもう、その
人間的あまりに人間的なふるまいには、塩野氏同様、微笑まずにはいられません。

出張先からの楽しい手紙で、同僚たちを笑わせる マキアヴェッリ。
公金を使ってどんちゃん騒ぎをして、友人に怒られる マキアヴェッリ。
仕事を山ほど抱え込み、「Ecco mi!」(塩野氏訳:マキアヴェッリ、ただいま参上!」)を口癖に
喜び勇んで駆け回る、働きバチ マキアヴェッリ。

著者はそんなマキアヴェッリの「著名な事実」を語る中に、
普通、学者は取り上げない「非著名な事実」をも、しっかり折り込んでいます。

ひどい娼婦をつかまされてさ、と友人にぼやきつつも、ちっとも懲りていない マキアヴェッリ。
失職中のくせに、惚れた近所の未亡人に貢ぐ マキアヴェッリ。



非常に頭がきれ、鋭い洞察力と天賦の文才があり
仕事のできる人物であった、ということは承知しつつも
ば か 。 とツッコミを入れて差し上げたくなる部分が所々あり
多いに親しみを覚えた次第でございます。

ついついこんな側面ばかり強調してしまいましたが
かようにくだけた話ばかりではもちろんございません。そらそーだ。

マキアヴェッリが生きたのは、フィレンツェ共和国の斜陽時代でした。
ロレンツォ・デ・メディチの死と共にルネサンスの栄光は去り
周辺諸国の軍事的圧力が、共和国に影を落とします。

そんな中、「目を開けて生まれてきた男」マキアヴェッリは
透徹した洞察力で世界を見、フィレンツェを憂い、イタリアを憂います。

国を憂いたのは、マキアヴェッリ一人ではありません。
しかしなお
イタリアが過酷な運命を免れ得なかったのは、何故なのか。
マキアヴェッリが、自国軍を持つことに強くこだわったのは、何故なのか。
その答えが、事実の集積から浮かび上がって来ます。

そして
政治を執り行う人々が、近視眼的な見通ししか持てなかった場合、また
危機に際して迅速な対応をとれなかった場合に
必然的に引き起こされる悲劇が、まざまざと示されています。
(本書では、なぜ上層部が近視眼的な見方しかできなかったのか、という所までは踏み込んでおりません。
そこまで分析するのは研究者の仕事でありましょう)

王や 貴族や 権力者 政治責任者といった
歴史の表舞台に立っていた人々の、選択や決断は
残酷なほどくっきりと、歴史の中に刻まれています。

彼らの行動は、いわば一国の運命を巻き込んだ処世術です。
胸のすくほど 大胆なものもあり
げんなりするほど 愚かしいものもあります。

その「処世術」は、何百年ののちに生きる私たちにとっても
少しも色あせることなく、むしろ自らに引き寄せて考えるべき示唆に満ちています。

16世紀のフィレンツェ。
冷徹な目と 熱い心 (そして軽いノリ)の
マキアヴェッリという同時代人に密着してたどった、フィレンツェの存亡は
やるせなく しかし スリリングで
頭と胸に 少なからず訴える ものだったので ございます。

『わが友マキアヴェッリ』

2006-02-05 | 
 『わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡』塩野七生 1987 を読了。

のろは塩野氏の長編を読むのは始めてでございましたが
簡潔、かつ臨場感あふれる語り口に ぐぐい ぐい ぐい と引きつけられました。

サブタイトルに「フィレンツェ存亡」とあるように
マキアヴェッリ個人の伝記というに留まらず、
マキアヴェッリの生涯を軸として書かれたフィレンツェ史、という趣き。

当時のフィレンツェ市民の日記や、マキアヴェッリとその周辺人物の私的・公的な書簡、
更にはマキアヴェッリの父の蔵書目録まで
膨大な資料を綿密にあたったことが伺われる、実証的な記述。

なおかつ、その中から
傲然とした チェーザレ・ボルジア
醜男でありながら、輝くように魅力的な ロレンツォ・デ・メディチ
若い書記官マキアヴェッリを余裕の表情であしらう 美しき「イタリアの女傑」カテリーナ・スフォルツァ
実にもって生き生きと、立ち現れて参ります。

そして、こうしたいかにも魅力的な有名人ばかりでなく
世界史の教科書には名前すら記されないような人々、即ち
事あるごとにフィレンツェともめる 法王連中だの
イタリアへの領土拡大を狙う フランス王ルイ12世だの
  12世。  誰?  てお思いんなるでしょう。のろは思いました。
ルイと言ったら、まあ14世か16世が相場でございまさぁね)
マキアヴェッリの上司や妻、文通相手といった、いわば「端役」たちまでが
血肉を持ち、人格を持ち、確かに生きていた 人間 として感じられるのです。




・・・
一回にupする文章が長過ぎてしんどいので
小分けでお出しする方針をとることにいたします。
というわけで続きは次回。


ドスト話

2006-01-29 | 
昨日(1/28)の続きなのですが
ドストエフスキーはお好き?

去年、斉藤 孝 氏が『過剰な人』という本を上梓されました。
ドストエフスキー作品を、その登場人物に即して熱く語った、非常に愉快な本です。

過剰な人。 なんと適切な表現でありましょうか。

以下は巷の一読者たるのろの感想に過ぎませんので、
まあその程度のことと心得てお読みくださいませ。


ドストさんの作品において、
男はみな何かに取り付かれたように行動し
熱にうかされたように喋りまくります。
一人の人物が数ページに渡って喋り続けるなんてざらです。
(文庫本の数ページではございませんよ、ハードカバー上製本(テキスト2段組み)の 数ページ です。)
女はといえばおおむね聖女か狂女です。
あと若干の俗物と。
まともな人?
おりませんよ、そんなつまらないもの。

ドストさん、未読の方はぜひ一度手に取っていただきたいのです。
宗教的・哲学的側面から語られることが多うございますから、
小難しい観念的な作品という印象をお持ちの方もおいででしょうが
のろがお勧めいたしますのは、何よりもまず 面白い からです。
読まずに死ぬのは損でございますよ。

面白い小説を読んで、その上に
世界への肯定や 
神の不在や 
破壊性や 
衝動や 
悪や 
愛 
などなどについて考えることができるとしたら
これはお得な話ではございませんか?

『罪と罰』『カラマーゾフ』がダメだったという方は、『白痴』をお試しくださいませ。
この作品は冒頭から入り込みやすく、観念的な議論や独白が少ないので読みやすいかと思われます。
そして何と申しましても、この作品には
文学史上に輝くスーパーヒロイン、ナスターシャ・フィリッポヴナが いるからでございます。

おお 破壊の女神、ナスターシャ・フィリッポヴナ。
恐ろしいほどの美貌と 女王のような度胸と気位の持ち主。
そうでありながら、彼女は
自分のことを紙くずほども大事に思っていないのです。

彼女は、自らが放つ強烈な磁場のただ中で
自らを 破壊し
彼女を愛する者を 破壊し
彼女が愛する人をも 破壊します。

彼女は 自分を決定的に傷つけ、痛めつけた世界を 激しく憎みながらも
自らの「傷」と離れることができません。

女王のように振る舞いながらも 「自分は汚れきった存在である」という観念から
逃れることができません。

女王のように振る舞うことで 世界に対抗し
それによって自らのバランスを保っていたのです。

しかし
彼女の前に、そのあまりの純粋さゆえに「白痴」と称される公爵ムイシュキンが現れ
彼女の全てを肯定すると言った時---------

おおっとここまで
これが前半のクライマックスでございます。

面白いので、未読の方はぜひ読んでみてくださいまし。


などと申して 『白痴」をお勧めいたしましたけれども
のろが一番好きなのは『悪霊』なのですよ、キリーロフ君。

『本の文化史』

2006-01-16 | 
『本の文化史 ブック・アラカルト』庄治浅水著 雪華社 1977 を読みました。
書物にまつわる歴史上のエピソードや、書物に とりつかれた 人々が登場する短編小説が収められた
まさしく本のアラカルトという趣き。
筆者や、言及されている人たちの書物愛がひしひしと伝わって参りまして、大変面白うございましたよ。

その中に「ある古本屋の殺人」という一編がございました。
ミステリではないので、ここで荒筋を紹介しても罪にはならぬでしょう。


時は19世紀、所はスペイン、バルセロナの都。
本好きが高じて、修道士から古本屋に転身してしまったドン・ヴィンセントというおっさんがおりました。

彼は商売品とは別に、珍本・稀本のコレクションを持っておりました。
飢えをしのび爪に火をともして金を貯め、それを全て稀本の蒐集につぎ込んでいたのです。
この秘蔵本はよほど危急の時でもないかぎり、どんなに大金を積まれても売られることはなく、
売ったとしてもすぐに買手の後を追いかけ、大騒ぎして結局金と本を取り返させるという始末。

ある時、オークションで天下の孤本『フラウス・デ・アラゴ』が出品されると聞きつけたドン・ヴィンセント、
ありったけの金を工面して乗り込みますが、あと一歩の所で商売がたきパクストットにせり負け、
ほとんど死相を浮かべて引き下がります。

その数日後、パクストットの店が火事になり、家主は黒こげの死体となって発見されます。
それに続いて、学識ある人物が、所持金は奪われることなく街路で刺殺されるという事件が続発します。
被害者はみな、バルセロナ中の本屋の常連客。
殺される前にドン・ヴィンセントの店にいるのを見たという証言もありました。

あまりにも怪しいのでドン・ヴィンセントの店を捜索してみると、果たせるかな
世界に一冊しかないはずの『フラウス・デ・アラゴ』
パクストットが持っていたはずのこの本が見つかったではありませんか。
また、殺された学識者たちが-----殺される直前に-----彼から買い取ったはずの、数々の貴重な本も。

尋問に答えてドン・ヴィンセントいわく、
「わたくしはいくつかの法を犯しましたが、決して悪意があったわけではありませぬ。
わたくしは学問に貢献するため、かけがえのない宝を保存しようと思ったのであります。
多くの人は、本よりもお金を愛し、書物よりも、この世の宝(=金)を尊びました。
このような人々に、大事な本を預けておくのは、とても忍びません」

いちおう、裁判は開かれました。
検察側が、動かぬ物証として「天下の孤本」がドン・ヴィンセントの店で発見された事実をつきつけると、
弁護士はとっておきの切り札を出し、こう切り返しました。
「『フラウス・デ・アラゴ』は天下の孤本ではございません。現に、フランスの図書館が1冊所蔵しているのです!」
これを聞いて、それまで端然としていた被告がわっと泣き崩れました。
「ああ裁判長、わたくしはとんでもない過ちをおかしました・・・」
ようやく犯行の重大さに気付き、悔悟したのかと優しく声をかける裁判長に対し、
「ああ裁判長、わたしのあの本が、天下の孤本ではなかったなんて・・・」

かくして、罪深き もと修道士ドン・ヴィンセントは、絞首台上の露と消えたのでありました。


これがですね。

実話なんだそうでございますよ。

すごいお方ですね。
まさに 愛書狂の名にふさわしいお方ではありませんか。
台詞にはもちろん脚色もあるでしょうから、この一編がどこまで事実に忠実なものかは分かりませんが
次の言葉などはなかなかの至言かと。
法廷で、神様が守ってくださるので犯行は全て首尾よく行うことができた、と語るドン・ヴィンセント。

裁判長「というと被告は、人を殺す心も神の御心の内にあると申すのか」
ヴィ 「人は死すべきもの、神様は遅かれ早かれ、彼らをみ許にお呼び寄せになりますが、
   しかし、良書はこの世の続くかぎり、保存しなければなりません」


ああ裁判長、彼のこの素晴らしい情熱と使命感が、もう少し別な方向を向いていてくれたらよかったのですが・・・

今年の一冊

2005-12-31 | 
昨夜は2005年の映画見納めをして参りました。
大阪
ナナゲイ
『ノミ・ソング』
また。
ええ。
馬鹿です。
ほっといてくださいまし。

さておき。
本日はサー・アンソニー・ホプキンスのお誕生日です。(1937年)
アンソニー・ホプキンスといえば、そう、レクター博士ですね。
しかし『日の名残り』で演じた執事スティーヴンスもそれはそれは素晴らしく
もし『羊たちの沈黙』がなかったならば、こちらが彼の代表作となっていたことでしょう。
スティーヴンスは英国の由緒あるお屋敷に滅私奉公する、たいへん有能な執事ですが
原作者カズオ・イシグロはこのキャラクターを創造する際に
P.G.ウッドハウスの筆による「ジーヴズ」シリーズを参考にしたといいます。
「神のごとき従僕」ジーヴズと、(いちおう)主人である超お人好しぼんぼん、バーティ君が繰り広げる・・・
というよりも
バーティ君が繰り広げてしまったトラブルに、ジーヴズが周到かつ鮮やかな手並みで収拾をつける
というお話です。たまにジーヴズ本人がトラブルの下手人であったりもしますが。
ジーヴズは英語圏では有名人らしく、オックスフォード英語辞典にもちゃんと名前が載っています。
「jeeveslike」、即ち ジーヴズっぽい という言い回しさえあるそうな。
『日の名残り』は格調高い中にもユーモアの漂う傑作ですが、「ジーヴズ』は格調もへったくれもなく大笑いできる作品です。もちろん読む人によりけりでしょうが、のろは もーお腹をかかえて大爆笑 でした。
本を読んでこんなに笑ったのは、内田百鬼園先生の随筆以来でした。
のろにこの本を教えてくだすった知人に多いに感謝する次第です。
というわけで
のろの「今年の一冊」は
『ジーヴズの事件簿』なのでありました。