読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『満身これ学究』

2009年11月25日 | 評論
吉村克己『満身これ学究』(文芸春秋、2008年)

古筆学の大家小松茂美の研究者としての半生を描いた評伝なのだが、古筆学という学問自体が私にはよく分からない―いわゆる日本の古い文学的作品を扱う国文学とどう違うのかよく分からないという意味で―のだが、小松茂美という人のすごさは、もう感嘆に値するというほかない。

著者一覧をみただけで、もうどうしてこれだけの本が書けるのか、しかもそのほとんどが通説を翻すような研究であるというだけでなく、『平家納経の研究』だとか『日本書蹟大鑑』の一つでさえも、人が一生かかって成し遂げた研究成果と言ってもいいような研究らしい。そういった何人分もの研究者が一生をかけてやっと成し遂げられるような研究がいくつもあるというのだから、もう、どんな日常生活をしているのだろうと首を傾げざるをえないのだが、まさに満身これ学究というのがそれなのだろう。朝起きてから寝るまでひたすら研究のことしか考えていない。しかも睡眠時間は3・4時間というのだから、もう人間を超えている。

とまぁ、こんなふうに、スーパーマンでも見るようなことしか書けないのは、もちろんまったくの門外漢だからだが、そもそも何百年も昔に書いた毛筆を誰が書いたのか特定するということ自体が信じられないような気がする。そのために何万枚と写真に撮った写本を比較研究し、筆跡鑑定の手法も身につけ、また当時の風習、自然、社会制度などあらゆることに通じた上で、本の数行だけの毛筆の写本の切れが誰のもので、いつの時代のものかを推理していくのだから、それはもう大変なことだ。

漢字学を確立した白川静にしても、古筆学を確立したこの小松茂美にしても、けっして裕福な家庭に育ったわけでもなければ、そういう研究をしていく環境にあったわけでもない。まるで神が彼らをそういう方向へ導いたかのように、この道に進んでいる。

しかしどんな環境にあっても、研究というのは膨大なインプットがなければ成り立たない。膨大なインプットがあって、それを整理分類し、そこから新しい意味や分類の方法などを導き出してくるという道筋はどんな研究でも変わらない。そう思って、お手上げ状態の気持ちを、鎮めた。

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