清水義範『国語入試問題必勝法』(講談社、1987年)
タイトルの面白さに惹かれて読んでみた。「猿蟹合戦とは何か」と「国語入試問題必勝法」が面白かった。
この人、「ブガロンチョのルノアール風マルケロ酒煮」がそうだが、嘘八百を書いているので、太宰が「お伽草子」で本当に猿蟹合戦を書いていないのかにわかには信じられない。それにこの昔話が男女の戦いを、というか男性支配にたいする女性の反逆を描いているというこの短編の結論だって、冗談だろうと、受け流すしかない。
そうなれば「国語入試問題必勝法」だって嘘に決まっている。だが、それを嘘と言い切れないほど、官僚の書く文章は判読が不可能に近いので、本当にそうかもしれないと思ってしまう。それほどお役所、とくに私が経験する限りでは厚労省あたりが書いてくる文章は判読が難しい。意味のないことを、さも意味があるかのように書かねばならないから、訳の分からない文章になるのだろう。
それはそれとして、私は高校生の頃、小説が好きでよく読んでいたので、自分は国語は得意だという、根拠のない自信をもっていて、ところが実際に国語の試験を受けるとあまり点数が芳しくないので、あれという思いを何度もしてきた(ってそんなに何度も入試を受けたわけではないけど)ので、「国語入試問題必勝法」は傑作に面白かった。たぶんこの短編は著者の実経験をもとにして書かれたのだろうと思う。そもそも文章の天才である作家があのようにしか書き得なかったことを30字にまとめろだとか主題を選べなんていうほうが間違っているというのはよく言われることだが、本来要約というものはすっと頭に入ってくるようなものでなければ意味がないのであり、もしそういうような要約が問題のなかにあれば、だれだって正解してしまうから、振り落とすための試験問題にならないというのは、その通りだろう。
私が通っていた高校は山陰地方でも指折りの進学校で、国立大学合格者200人を目指しているような公立高校だったが、なかには遊んでばかりいる(ように見せつつ)のに東大に入学したなんて優れものもいて、英語や数学なんかではけっこう教師泣かせの生徒もいたらしい。私はそんな生徒にはお目にかかったことがないが、教師が降参してしまい、私の勉強不足でしたなんて言ったという伝説も聞いたことがあるが、そういう人がいるかと思えば、クレバーを「りくちな」なんて訳してしまい、クラス一同一瞬唖然としつつも、まぁかわいい子だからいいかと大目に見られてしまうような女子もいるようなところであった。そういうなかで私は理数がまったくだめで、それなのに理系クラスに入って、教師から完全に無視されるような状態だった。20歳代くらいまでは、数学の試験ができなくて卒業できない、みたいな夢を見ることもあったくらいだから、相当のプレッシャーだったのだろうな。だから、試験問題ができないということは、自分の頭が悪いからだと思い込んでしまうところがあって、この小説のように、問題がおかしいのだという発想にはけっしてならなかった。だから、入試には役に立たなくとも、こんな馬鹿げたプレッシャーから解放されるだけでも、この手の本がもっと若いときに読めたらよかったのだが。
タイトルの面白さに惹かれて読んでみた。「猿蟹合戦とは何か」と「国語入試問題必勝法」が面白かった。
この人、「ブガロンチョのルノアール風マルケロ酒煮」がそうだが、嘘八百を書いているので、太宰が「お伽草子」で本当に猿蟹合戦を書いていないのかにわかには信じられない。それにこの昔話が男女の戦いを、というか男性支配にたいする女性の反逆を描いているというこの短編の結論だって、冗談だろうと、受け流すしかない。
そうなれば「国語入試問題必勝法」だって嘘に決まっている。だが、それを嘘と言い切れないほど、官僚の書く文章は判読が不可能に近いので、本当にそうかもしれないと思ってしまう。それほどお役所、とくに私が経験する限りでは厚労省あたりが書いてくる文章は判読が難しい。意味のないことを、さも意味があるかのように書かねばならないから、訳の分からない文章になるのだろう。
それはそれとして、私は高校生の頃、小説が好きでよく読んでいたので、自分は国語は得意だという、根拠のない自信をもっていて、ところが実際に国語の試験を受けるとあまり点数が芳しくないので、あれという思いを何度もしてきた(ってそんなに何度も入試を受けたわけではないけど)ので、「国語入試問題必勝法」は傑作に面白かった。たぶんこの短編は著者の実経験をもとにして書かれたのだろうと思う。そもそも文章の天才である作家があのようにしか書き得なかったことを30字にまとめろだとか主題を選べなんていうほうが間違っているというのはよく言われることだが、本来要約というものはすっと頭に入ってくるようなものでなければ意味がないのであり、もしそういうような要約が問題のなかにあれば、だれだって正解してしまうから、振り落とすための試験問題にならないというのは、その通りだろう。
私が通っていた高校は山陰地方でも指折りの進学校で、国立大学合格者200人を目指しているような公立高校だったが、なかには遊んでばかりいる(ように見せつつ)のに東大に入学したなんて優れものもいて、英語や数学なんかではけっこう教師泣かせの生徒もいたらしい。私はそんな生徒にはお目にかかったことがないが、教師が降参してしまい、私の勉強不足でしたなんて言ったという伝説も聞いたことがあるが、そういう人がいるかと思えば、クレバーを「りくちな」なんて訳してしまい、クラス一同一瞬唖然としつつも、まぁかわいい子だからいいかと大目に見られてしまうような女子もいるようなところであった。そういうなかで私は理数がまったくだめで、それなのに理系クラスに入って、教師から完全に無視されるような状態だった。20歳代くらいまでは、数学の試験ができなくて卒業できない、みたいな夢を見ることもあったくらいだから、相当のプレッシャーだったのだろうな。だから、試験問題ができないということは、自分の頭が悪いからだと思い込んでしまうところがあって、この小説のように、問題がおかしいのだという発想にはけっしてならなかった。だから、入試には役に立たなくとも、こんな馬鹿げたプレッシャーから解放されるだけでも、この手の本がもっと若いときに読めたらよかったのだが。