読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『フェルマーの最終定理』

2008年12月14日 | 自然科学系
サイモン・シン『フェルマーの最終定理』(新潮社、2000年)

小学校の高学年で黒田君という教師の両親をもつ一人っ子(ほんとうは上にお姉さんがいたのだが年が離れていて、当時はすでに大学生で東京に住んでいたので、一人っ子みたいなものだった)と知り合ってから、彼の影響で突然科学に目覚め、天文のことだとかロケットのことだとか、要するに科学読み物をあれこれ読み始めた。黒田君はじつにあれこれよく知っていて、ついでに土曜日に学校から帰ると、インスタントラーメンを食べながら、「よしもと新喜劇」を見るという、まったく私の知らない世界をもっている子どもであった。

なかでも私は偉い人の伝記のなかのニュートンが気に入ってしまい、反射望遠鏡を作ってみたり、竹を組んで大きな羽というか翼のようなものを作って、空を飛んでみようとしたり、周囲から見たら馬鹿みたいな子どもであった。

この本を読みながら、子どもの頃に、将来は自分も科学者になりたいと思って、自分なりに、地球の公転距離を計算してみたり、流れ星の数を観察してみたりしながら、科学読みものを図書館で借りて、あれこれ読んでいたことを思い出した。もちろん内容的にはまったくレベルの違うものではあるが。ただ中学の頃にはほんとうに数学が好きで、数学の問題を解くのが面白くてたまらなかったのに、どうして高校になって分らなくなったのだろうと今でも不思議でしょうがない。

まぁ素人なので、フェルマーの定理云々という話はしないが、普通に考えても、これだけ現代の数学者がたいへんな思いをして、現代数学の到達点をすべて総動員してやっと証明できたような問題をはたしてフェルマーが証明していたのかどうか疑わしいという気がするが、そういうことは問題にならないのだというのがまた不思議でもある。

まぁ素人なので、そういうことよりも、こういう問題について素人向けに一冊の本を書くという行為そのものにたいする関心のほうが強い。歴史上にある専門家たちが取り組んできた問題の発生とその展開、そして解決にいたった道筋を、その時代や登場人物の個性なども織り交ぜながら記述していくということは、専門家からみたら馬鹿みたいな仕事かもしれないが、人間というものがいったいどういう歴史的存在なのか、人間の営みがいかに歴史の一こまとして大事なのかを知らしめる作業として、面白いと思う。

たとえば現代人が当たり前と思っていることがいったいいつ主張され始め、いつ当たり前と見なされてきたのか、またなぜ当たり前と見なされるようになってきたのかなどを研究していくというのは、結果だけを提示されるとものすごく簡単なことに思えるかもしれないが、それを探り当てていく労力はたいへんなものになるだろう。それこそ、砂浜からそこに落としたコンタクトレンズを探すようなと言ったら、誇張しすぎだろうか。欲や名声などを求めないならばそういう研究もいいなと最近は思うようになってきた。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする