読書な日々

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『逆説の日本史1』

2008年12月18日 | 作家ア行
井沢元彦『逆説の日本史1』(小学館文庫、1998年)

井沢歴史学、じつに面白い。そしてじつに説得力がある。田母神元自衛隊空幕長がアパグループの懸賞論文で中国侵略などなかったと書いた問題で、自衛隊ではどういう教育をしているのかということが問題になり、講師の名前が公表されて、そのなかに井沢元彦の名前があったので、なにやってんだ!と思ったが、それとこれとはまた別で、彼の書いたものはじつに興味深い。

今回はその第1巻である。古代が扱われている。古代史というのは、資料も少ないし、そもそも古代史をやる人は必ずしも考古学者とは限らないというは、古代史と考古学とはまったく別物のようだし、いったいそういう状況で古代史研究なんか可能なのかとつねづね思っていたのだが、日本人であるのなら、多少の文献が読めさえすれば、あとは理論物理学じゃないが、紙と鉛筆で研究できるんだな、問題は資料の量ではなくて、合理的想像力の問題だなということが分った。

たとえば卑弥呼と邪馬台国の問題である。いったいこの問題、とくに邪馬台国がどこにあったのか、九州だったのか、近畿だったのかという論争で、どれだけの本が書かれていることか。それだけの研究者やら歴史愛好家がああだこうだと論争しても埒が明かないのだから、普通は私なんかがやっても、と諦めるところだが、井沢はちがう。

それが可能になったのは、彼が日本人の歴史を語る上での基準というもの、怨霊信仰、言霊信仰、和の思想をつかんでいたからといえる。そのいい例が、出雲大社の存在理由を明らかにした第2章にある。この第1巻は1992年に初版が出版されているが、それ以前に「週刊ポスト」に連載されていたから、彼がこれを書いたのはそれ以前になる。その当時から、出雲大社の大きさは通常の神社から見ても異例の大きさを誇っていたが、彼は昔から言われていた「雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎」という言葉に言及しつつ、きっと出雲大社は東大寺よりも大きかったはずだ(あるいはそうでなくても、当時の人々はそう思っていた)ということを主張したが、はからずも2000年に巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が大きいと考えられている。しかしこれでも16丈48mになるはずで、東大寺を超えてしまう。出雲大社はオオクニヌシノを祭った神社であり、それは大和の国がオオクニヌシの国を滅ぼしたときに、その霊魂をなぐさめ怨霊とならないようにするために出雲に巨大な神殿を建築して、そこにオオクニヌシとともに大和の神々を祭って彼の霊魂を慰めるとともに怨霊となって出てこないように監視させたというのだ。そしてそういう土地だから出雲の雲はまさにアマテラス(太陽)を隠す雲、つまり死を意味するのだという。

第三章の卑弥呼は皆既日食によって前王が失脚(たぶん殺害された)あとに、太陽神の巫女として女王になったのだろうという仮説も興味深い。ひみことは日巫女あるいは日御子であるというのも面白い。そして現に248年に再度皆既日食があって、そのときにそうして天変地異のせいで卑弥呼も殺害されて死を迎えたという仮説。卑弥呼が殺害されたという仮説は松本清張なんかも主張していることだが、これを皆既日食と結びつけたのは井沢が初めてだろう。邪馬台国というのもじつは古代中国の発音からすると日本人が「やまと」と言ったのを中国人が邪馬台と書いたのではないかと、古代中国語の研究者にも調査して主張している。そこから、後に『古事記』には卑弥呼の死が「アマテラスの岩戸隠れ」として記録されたという。

そして第四章で神功皇后神話にからめて、8世紀に称徳女帝が道鏡を天皇にしてもいいかどうかを九州の宇佐八幡にお伺いをたてたという事実は、当時から伊勢神宮がオマテラスつまり天皇家の祖先の神社であったにもかかわらず、そちらではなく宇佐八幡に詣でたということは、もともと大和朝廷の始祖の神社は宇佐八幡だったのではないか、つまりもともと大和朝廷の始祖は邪馬台国で九州にあったが、勢力を強め、近畿の諸国を討伐し、そこに本拠を移し、その威を示すために、仁徳天皇稜をつくり、伊勢に始祖アマテラスの神殿を作った、という仮説を提示する。

最初にも書いたが、古代史なんていうとほとんど素人が手にすることができる資料なんてしれているし、素人には無理だろうと思ってしまうが、じつは井沢がここで使っている資料でも古いものは『古事記』『日本書紀』くらいのもので、それはこれだけの研究があるのだから、現代語訳でも読むことができる。あとは、まさに日本人の歴史を見る上での基準、これさえしっかりしていれば、いままで矛盾だらけに思われていたことが、きれいに筋を通して見えてくるということなのだろう。ほんと、たいしたものだ。

彼の仮説をきちんと批判できない古代研究者なんて存在価値はない。どうせ彼らは井沢の仮説を素人と馬鹿にしているのだろうが、彼らこそ重箱の隅をつつくようなことをやっているだけで、古代史研究になんの役にも立っていない。

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