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『「平穏死」のすすめ』

2018年10月10日 | 評論
石飛幸三『「平穏死」のすすめ』(講談社、2010年)

後期高齢者、というか、副題にもあるように、「口から食べられなくなった」寝たきりの高齢者の医療のあり方、それは取りも直さず人間の最後の看取りのあり方を問題にした本である。

朝日新聞の土曜版に終末期医療に携わっている人たちのエッセイが掲載されているが、そのなかにこの人の名前を見たので、読んでみた。

もともとは消化器外科の専門医で、時代の先端を行くような医療をしてきた人のようだ。だから医療は患者ととともに闘うものという意識を持っていたという。だが、自分自身も老人になって、トップランナーとしての立場から引退して、終末期医療に関わるようになったことで、日本の終末期医療のさまざまな問題が見えてきたという話である。

ここでの話はガンなどのケースは含まれない。著者が勤務する特別養護老人ホームの話で、たいていは認知症になっているケースだという。認知症になると嚥下能力が落ちる。誤飲から肺炎になる。ホームでは医療行為ができない(!)ので、病院に送る。病院で肺炎が収まると、ホームに戻ってくる。これが何回か繰り返されると、口から食べられなくなっているので、病院では胃ろうとか経鼻胃管を勧められる。どちらにしても、寝たきりの老人に必要な以上の栄養や水分が無理やり(○○カロリーの栄養が必要だという思い込みが医療関係者にあるらしい)入れられて、パンパンに膨れ上がった状態で亡くなる。

認知症で自分の意思を口にできないので、こんなことになってしまうらしい。そしてこれを拒否すれば、医者も看護師も、あとから栄養不良にして死なせたと殺人罪を咎められるのではないかという恐怖感から逃れられないのだという。

こうした異常な終末期医療に対して、著者が対置しているのは、同じホームの入居者の家族から聞いたという三宅島でのあり方である。三宅島ではもともと医者がいなかったので、老人が口から食べられなくなったら、水を欲しがるだけ与えるだけにするという。そうすると、数日後(あるいは数カ月後)には、やせ細って、静かに亡くなるという。それは見ていても安らかな死だという。

著者がこの本で繰り返し強調していることは、口から食べられなくなって、人生の終末を迎えている老人を胃ろうや経鼻胃管で無理やり生かせることはやめて、穏やかな死を迎えられるようにしてあげようという、だれでも納得がいくことである。

ところがそれが現在の医療制度ではできないというのだから、まったく恐れ入る。第一に医者のいないところで人が死んだら、たいへんなことになる。警察が入ってくるからだ。だから、自宅やホームで死を迎えることは、在宅医療の連携がうまくできている場合にしか不可能だ。

病院に入れられたら、そうした穏やかな死を迎えることは老衰の場合にはできないことは上にも書いた。最近はガンの場合には終末期医療をやっている病院が増えてきた。その実態がどうなっているのか詳しくは知らない。どうしてただの老衰の場合にも同じようにできないのだろうか?

結局、医者も身内も、一分一秒でも長生きさせなければ罪悪感を抱くことにある。ここを変えるためにはこうした医者自身からの問題提起が必要だ。

医療行為によって治せるものと、人間の行き着く先としての老衰をきちんと区別できるのは医者しかいないのだから、医者自身がこうした問題提起によって、終末期医療のあり方を厚労省に提案するようにしなければ、ここで挙げてあるような悲惨な死に方はいつまでも続くだろう。


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